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ライフライン

震災関連はこれで終わりにします。

今の世の中で、食べ物と水を求めて東奔西走するなど考えてもいなかった、一被災者のひとりごと、最終章です。

電話の通じない日も5~6日あった。無事を知らせることも出来ずにいた。

レバーを押すとを勢いよくきれいな水が出る、ボタンを押せば青い炎のガスが出る、こんな当たり前の日常が一変した。

高架水槽が空になりピタリと止まってしまった水、歯磨きをする水もコップ一杯の水さえもない。
当日スーパーの開店時間に行くと、すでに大勢の人が開店を待って並んでいた。
店内も商品が棚から落ち、大変なことになっていたにも拘わらず定時に開店した。
どっと流れ込む人々でいっぱいになる広い店内。危険回避のため入場制限をされる。
店内から出てくる人の手には飲料水、ポリバケツ、ポリタンク、赤ちゃんのミルク等々。戦利品よろしく抱えている。
ここで、これらの物も必要ならば、持ち合わせが少ないと気付き、ATMへ行くが閉まっている、当然である。
店内に入れた時には飲料水もお茶もなかった。1ケース持っているお兄さんとすれ違いに「いいなぁ水欲しい・・・」言うと1本譲ってくれた礭助かった。その時点ではガスは出ていたので、火にかけると食べられるアルミの鍋に入ったうどんを買った。カップラーメンの類はなかった。
もうこれで安心と思えるほどの食料は買えなかった。バケツもポリタンクもなかった。
今主流のポスレジがまだ珍しい時、導入していた店ではレジが水に浸かり自慢のポスレジが使えず、手打ち&電卓でしのいでいた。ふとレジから店の外を見ると入店を待っている人たちの顔が引きつっているようだった。

水道についての第一報は、夕方には復旧の見通しとのことだったが、時間が経つにつれ見通しがつかなくなっていった。当日から近くの中学校の校庭に給水車が来ると言うことだったが、道路状況が悪く深夜に少しの水を手にすることが出来た。ポリタンクもきれいなバケツもなく、薬缶と鍋に貰ってきた。それからの4~5日、水と食料を求めてあちこち原付を走らせた。

そんな時、マンションの集会所の前の水道管が割れて水が出始めた。保健所の「飲料水にOK」のお墨付きで薬缶に鍋にバケツにと一日に何度も水を汲みに降りた。2~3日するとそこは立派な共同水汲み場になった。足元を固め掬っても砂が入らないよう、そしてそんな水汲み場からでも、水を手にすることが出来る安心感が住民の中にあった。
道路の向かい側の歩道からも水が出始めた。しかしこちらは飲料水にはならず、お手洗いや洗濯に使った。
数日後、マンション内に、管理組合が給水車の手配をした。
しかしどこに行っても手に入らない、新しいバケツとポリタンク、無性に欲しかった。
ゴミ袋を入れたバケツに水を入れ、口を結んで何度も往復した。重かった。
後にこれが引き金になり、脚を悪くしたのだった。こんな水汲みの生活が3週間続いた。

その内仕事も行くようになると、昼間に来る給水車の利用が出来なくなった。
自衛隊の船まで水を貰いに娘の運転で行くと、親切に実に丁寧に接してくれ、ポリタンクを4つ車に乗せてくれた。ありがたかった??

レバーを下げ水が出た時の、あの瞬間の感動と感謝、ありがたい、大切に使わねばと思った。
最近のレバー式蛇口は、上にあげると水が出るようになっている、これは震災の経験からこうしたのだと聞いた。
上から何か落ちてきても、蛇口から水が出っぱなしにならないようにとのことである。

ガスは当日の夕食にあるもので雑炊を炊いたのが最後、4週間止まったままであった。
その当時、我が家はカセットコンロを使っていなかった。まずはカセットコンロとボンベを買わねばとスーパーへ行く。
その店舗は2階部分が日用品売り場になっていたが、混乱を避けるためかどうか震災後しばらく客は上に上がれなかった。
階段の下の台に色々な物を置き「それ、これ!」という風に買っていた。そこに箱に入ってないコンロを見つけて「コンロとボンベ!」と言ったもののボンベは売り切れだった。とりあえずコンロだけ手に入れた。それから量販店に足を運んだがやはり売り切れていた。コンロは手に入れたもののボンベがないのが恨めしかった。
しばらく浅い電気鍋で食事の用意をしていた。
ある日、量販店でボンベが一人1個買えると聞き昼休みに買いに行った。ずるいと思いながらも2回並び2個買った。
計8本のボンベがやっと手に入った。

お風呂のこと食料のこと住まいのこと、本当に色々あった。
物に不自由をした覚えのない戦後生まれの私、パンさえ買えなくなる現実に、ただただ必死の毎日だった。

被災地(避難所)へ優先的に食料品を回すと言う決めごとがあるらしい中、自宅で非常時を乗り越える被災者には、おにぎりの1個も救援物資が届かない現実。
そして避難所によってはありあまるほどの救援物資が届くのも現実、現に全壊した義妹が避難していた小学校には、消費しきれない物資が届き、我が家におにぎりを持ってきた。

阪神大震災は冬でよかったと思う、これが夏であったならと思うとぞっとする。
ハイチのように気温が30度を超えるような時でなかったのは、不幸中の幸いだと思う。

震災から何日か経った時、A新聞で震災の川柳の特集を載せていた。その中に

被災地へ急ぐ背中の水の音  天根 夢草  という句があった。

忘れられない1句であり、後に私が川柳を教わる川柳作家の句であった。


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