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1月17日

あの日から18年・・・ここでブログを始めてから、毎年阪神大震災で経験したことを書いてきました。

あの日の夕方、お水を求めて右往左往していると、当時大阪で一人暮らしをしていた長女が、自転車で帰ってきました。
電話が不通で連絡がつかないことが、不安で堪らなかったそうでした。
「もし自分だけが残ったらどうしよう・・・」と不安をいっぱい抱えて、車の間をぬって自転車での帰宅でした。
薬缶を下げて歩いている私を見つけた長女の第一声が「あ~よかった、みなしごになったらどうしようと思った」
もう成人していたので「みなしご」はないでしょうけどね。
親を煩がって家を出ていたのですが、やはり一人になるのは恐れていたようです。

当時、次女は神戸で勤務していました。
バブルがはじけたころの卒業で、就職がなかなか決まらず仕方なく、夫のコネで船会社に就職し1年目でした。
あの日普段と変わらず家を出たのですが、最寄駅構内に隣の工場の煙突が倒れ、電車が不通になっていると言って帰ってきました。
通勤手段がなく4日ほど家にいましたが、電話が復旧後、会社から関空経由で出勤してくるよう、指示が出されました。
尼崎まで行って高速バスで関空へ行き、そこから船でポートアイランドの会社へと出勤していきました。帰りは大阪の長女のところでお風呂に入ってきました。

自宅はガスが4週間・水道が3週間、止まったままでしたので、銭湯の情報を聞いては寒い中、長時間待って入りに行きました。
でもせっかく入ったお風呂も、途中で水がなくなるトラブルがあったり、1回の入浴時間が制限されたり・・・。

公務員の夫は有事のときこそ出勤せねばならず、自転車や原付で三宮まで通勤でしたし、帰りも遅く銭湯の空いている時間に帰ってはこれず、平日は全く入浴出きませんでした。


レバーを下げれば水もお湯も出る生活が一変し、どんなに水がありがたいものか、この時初めて知ったのでした。
4週間たって自宅でお風呂を沸かせた時の嬉しさは、今も忘れられません。
娘と何度も手を浸けて、にやりとしたものです。

食料品もそうです、お水がないと野菜を買っても洗うことが出来ません。
スーパーの惣菜が出てくるのを、調理場付近で待って取り合いでした。

倒れたマンション、パックリ横割れをして行く手を阻む道路、センターラインで割れた道路、新幹線の橋脚が折れた現場、バスが半分落ちかけている阪神高速道路、どれもこれも忘れられない、忘れたはならない光景です。

                        合掌

被災地へ急ぐ背中の水の音      天根 夢草

平成七年一月十七日裂ける      時実 新子          



十八年取り残されている更地     タンポポ







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