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1月17日 19年経ちました

風邪は回復半ばです。

阪神淡路大震災から19年が経ちました。

私の親戚や友人は大きな被害を受けました。
でもたくましく生活を再建することができました。
東日本大震災と比べることは出来ませんが、やはり当事者にとっては忘れることの出来ない大震災です。


我が家も入居して4年目、多額のローンを抱えていた自宅で、ド~ンという大きな音と揺れで飛び起きました。

まず電気と水が使えなくなりました。
1時間ほどして電気は復旧して、買い置きの水でコーヒーを沸かし夫と次女は出勤しました。

ガスは当日、夕食の準備をするまで使えていました。
あの日の夕方、お水を求めて右往左往していると、当時大阪で一人暮らしをしていた長女が、自転車で帰ってきました。
電話が不通で連絡がつかないことが、不安で堪らなかったそうでした。
「もし自分だけが残ったらどうしよう・・・」と不安をいっぱい抱えて、車の間をぬって自転車での帰宅でした。
薬缶を下げて歩いているタンポポを見つけた長女の第一声が「あ~よかった、みなしごになったらどうしようと思った」
もう成人していたので「みなしご」はないでしょうけどね。
親を煩がって家を出ていたのですが、やはり一人になるのは恐れていたようです。

当時、次女は神戸で勤務していました。
バブルがはじけたころの卒業で、就職がなかなか決まらず仕方なく、夫のコネで船会社に就職し1年目でした。
あの日普段と変わらず家を出たのですが、最寄駅構内に隣の工場の煙突が倒れ、電車が不通になっていると
言って帰ってきました。
通勤手段がなく2日ほど家にいましたが、電話が復旧後、会社から関空経由で出勤してくるよう、
指示が出されました。
尼崎まで行って高速バスで関空へ行き、そこから船でポートアイランドの会社へと出勤していきました。
帰りは大阪の長女のところでお風呂に入ってきました。

自宅はガスが4週間・水道が3週間、止まったままでしたので、銭湯の情報を聞いては寒い中、
長時間待って入りに行きました。
でもせっかく入ったお風呂も、途中で水がなくなるトラブルがあったり、1回の入浴時間が制限されたり・・・。

公務員の夫は有事のときこそ出勤せねばならず、自転車や原付で三宮まで通勤でしたし、
帰りも遅く銭湯の空いている時間に帰ってこれず、平日は全く入浴出きませんでした。

この間、娘が休みの日、自衛隊の船まで水を貰いにいくと優しく言葉をかけていただき、
タンク5個も車に載せてくれました。

レバーを下げれば水もお湯も出る生活が一変し、どんなに水がありがたいものか、
この時初めて知ったのでした。
4週間たって自宅でお風呂を沸かせた時の嬉しさは、今も忘れられません。

食料品もそうです、お水がないと野菜を買っても洗うことが出来ません。
スーパーの惣菜が出てくるのを、調理場付近で待って取り合いでした。
被災地の避難所には、ありあまるほどの食料が回ってくると、ききましたが、
町から毎日食べるパンや牛乳が消えました。
これは被災地に優先して運ぶという取り決めがあるそうですが、自宅で暮らせていても食べ物が
手に入らないという事態に、お金があっても欲しいものが手に入らないという現実に、パンやガスボンベを
求めて原付で走り回りました。



倒れたマンション、パックリ横割れをして行く手を阻む道路、センターラインで割れた道路、
新幹線の橋脚が折れた現場、バスが半分落ちかけている阪神高速道路、どれも鮮明に覚えています。

                        
被災地へ急ぐ背中の水の音      天根 夢草

平成七年一月十七日裂ける      時実 新子 



あの頃生まれた子供たちも、もう大学生だったり受験生です。 
月日の経つのは早いなと改めて思います。
そして夫もあの時は若くて元気だった・・・。       





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