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④3人の友へ最終章

半年ほどの後、S治は千葉へ転勤になった。
遠距離恋愛をするまでの関係にはならなかった。
「落ち着いたら手紙書くわ・・・」それがS治の最後の言葉だった。
2ヶ月経ったころ、約束通り手紙が来たが、ワクワクもドキドキもしなかった。
それから何通かの手紙のやりとりのあと、どちらからともなく自然消滅した。
もともとそんな関係だったのだ。



そして20数年後、同窓会でS治の訃報を聞いた。
家族のある身で、飛び降り自殺をしたのだと聞いた。

私とS治が少しの間、付き合っていたことを知っていた同級生は何人かいた。
デートをしている時、同級生にバッタリ出会ったことがある。
S治の訃報を教えてくれたのも、その一人でS治の家の隣のAちゃんだった。
ショック受けないでね・・・と前置きをして話してくれた。ショックはショックではあったが、
すでに過去の人であり、K子の時のようなショックはなかった。

そして私が出した数通の手紙を、ずっと持っていて、実家の兄さんが私に返して
欲しいと、奥さんから預かっていたと・・・。
テニス部の先輩だったお姉さんが、今更そんなもの返しても、迷惑なだけだから
処分しようということになり、処分したと聞いた。
私はとっくに処分したのに・・・。なぜそんな手紙を、いつまでも持っていたのだろう?

偶々処分し忘れていたのだと思うが、好きだとかLOVEだとか、ただの一度も
書いた覚えがないし。書いてあった記憶もない。
奥さんが読んだかどうかは判らないが、亡くなった夫の青春時代の
他愛のない一ページにしか感じなかったと思う。



私にとって、比較的深い繋がりのあった3人の友が、自らの命を絶った。
3人とも両親より早く逝ってしまった。

K子の場合、余命宣告されていたのかも知れない。
それでも自ら16歳の命を、絶ってしまうという行為は、両親にどれだけの苦しみを
与えたか計り知れない。 ましてやお父さんは警察官だったのだ。

emiyとS冶だってそうだ。
残された家族にどれほどの悲しみや、苦痛を与えたことだろう。。
死者に鞭打つつもりはないが、生きる希望を失ったとしても、家族のことを
考えて踏みとどまって欲しかった。
何とか生きる希望を、見いだして欲しかったと思う。

3人の亡き友③初恋のS治

大阪でのOL時代、寮の夕食が終わって仲間と買い物に出た。
そして帰りにケーキを食べようと喫茶店に入った。


ケーキセットが運ばれて来て、口を付けた。
何となく視線を感じ、感じた方に目をやった。
アッ!・・・ビックリした拍子に持っていたフォークが、カチャと音を立てた。
何とそこに初恋のS治が、オッスとばかりに片手を挙げて、笑っているではないか。
「ええ!!なんでここにいるの?この近くに住んでるの?・・・etc.」
一方的に喋ったと思う。
S治は仕事で近くに来て、帰りに高校時代の友達を、待っているところだった。

これが初恋?と意識したのは、小学校5年生だった。
社会科の時間、グループで世界地図から国を探す授業があった。
たしか5人グループだった。
その中にS治がいた。Y彦もいた。
その時間が楽しくて、待ち遠しかった。
Y彦とS治二人の、漫才のような話し方が楽しかった。
そんなグループ学習も長くは続かなかった。

そして中学に入り、S治はあまり身体は大きくなかったが、野球部に入った。
私はテニス部。下手なりにラケットを振っていた。
テニスコートから見える野球部の練習風景、これに惹かれたのかも・・・。

そして高校に入るまでは何事もなかった。そう私の片思いだった。
「好きな子はいる?」仲良くなったS子が言った。
「いるよ、でも片思いやねん・・・」そんなたわいない話しをするのも、誰にでもある
青春時代の一コマだろう。

当時の淡路島には、電車が走っていたので電車通学だった。
同じ駅から乗るので、付かず離れずの位置をキープ、それで十分だった。

ある日S子は「電話かけようよ。かけてあげるわ。」と言う。
「嫌や~そんなん止めて・・・」

50年ほど前の田舎で、固定電話のある家は、ごく少数だった。
たいていの家は、農協の有線電話だった。
S治の家は商売をしていたので、固定電話があった。
知らない間に、S子は電話をかけていた。
そしてある日、S治からまさかの電話がかかってきたのだった。
「○さんから聞いて・・・。ビックリした]
「ゴメン、嫌や言うたのに・・・気にせんといて」
「IさんはY彦を好きだと思とった、Y彦もIさんを好きだと言うとった・・・」
「ええ~~・・・!」
50年も前のことで、他には何を話したのか覚えていない。

ここでデートの約束も何もなかったのが、純朴さゆえだったのか。
否それ以上に、関心がなかったということだろう。

そして前述の喫茶店での再会の後、S治と初めてデートをした。
ケータイのない時代、連絡は手紙か互いの寮への電話しかなかった。
梅田の阪急百貨店で待ち合わせ、大阪城へ行った。
月に2回ぐらいのデート。今のようにUSJも阿倍野ハルカスもなかった。
心斎橋を歩いたり、映画をみたり、公園をぶらぶらしたり、歌声喫茶に行ったり・・・。

クリスマスプレゼントを交換をした。S冶からはぬいぐるみ、私はネクタイを贈った。
年末の帰省を、往復一緒の船に乗ろうという話になった。
当時明石海峡大橋は、まだ夢の架け橋だった。
淡路島へ渡るには、船かフェリーしかなかった。

待ち合せは元町駅の改札口。私が早く着いた。
中突堤まで、私のお土産を持ってくれた。
船の乗り場に行くと、帰省客で混雑をしていた。
大勢の人の中から、S冶の名前を呼ぶ声が聞こえた。
おそらく同時に振り向いたのだろう。
声の主の方へ歩み寄る2人。同級生のHとNだ。
他にも何人かの同級生の顔が見える。
淡路弁で「お前ら付きおうとるんか?」
「偶に会って喫茶店に行ったりしとる・・・」
「アホ、それを付きおうとる言うんじゃ」
「・・・」



3人の亡き友②emiyへ

河川敷で大きな炎が上がっている。その燃えさかる炎の中に、友人のemiyがいる。
私は「emiy何してるの、死んでしまうよ、やめて!!」と叫んでいるのに声が出ていない。
必死で叫ぼうとするのに声が出ない。
炎の中でemiyは、一瞬微笑んでそして手を振った。


ぐっしょり汗をかいて飛び起きた。
夢の中では声が出ていなかったのに、実際は叫んでいたようで
夫もビックリして飛び起きた。


その場面を実際に見ていないが、もう何年も前、自宅の庭で灯油をかぶり
emiyは焼身自殺をした。

最後に電話があったのは、いつだったのだろう。
電話をかけて来るには、いつもよりちょっと早い時間だった。
しかし話しの内容に不自然を感じなかった。
声のトーンもいつもと同じで疑う余地はなかった。
否、私が鈍かったのかも知れない。
本当は何か聞いて欲しかったのだと思う。

emiyと最初に出会ったのは、中学の2年生だった。
合併した町に中学が2校あった。
そして同姓同名の女子生徒が、互いの中学校の同学年にいた。
合同体育祭の時、emiyがやってきて「○島○ちゃんてどの子?
うちの○ちゃんが会いたいねん」と言ってきたのだった。

高校へ進学すると、emiyも同じ高校で同じクラスになった。
いつのまにか仲良くなった。

女に産まれたことを嫌がっていた高校時代、当然家庭科は大の苦手。
黒縁の大きな眼鏡をかけ、男っぽい歩き方、話し方や笑い方、声までも男っぽく
男の方が似合ってるとみんなが思っていた。

数学と化学が得意だった。
解けない問題を教えてもらうと、左手でメガネをちょっと上げ、サラサラサラと
大きな字で問題を解いた。
綺麗な大きな目が、悪戯っぽく笑っていた。

そんな彼女が22歳で、普通に結婚し一男一女をもうけた。
これにはみんながびっくりした。

私が実家に帰省しているとき、長女を抱っこしてemiyがやってきた。
いいお母さんぶりを発揮していた。



彼女が何故、焼身自殺という思い切った手段を、選んだのか
未だにわからない。
何がemiyをそんなに追い詰めていたのだろう。
一説には姑との確執があげられた。そして少し精神を病んでいたということを
人づてに聞いた。
だからこそ最後になった電話が、気になって仕方がないのだ。
話した内容は鮮明に覚えているのに、本当に話したかったことを
聞いてやれなかった。
emiyの最期を知ってから、何年も友達甲斐のない自分を責めている。

農家の嫁として、精一杯働き立派に子育てをしたemiy。
他に手段はなかったのだろうか?

気が向けば電話で色々話したね。
子どものこと、農業のこと、友人たちの近況。
最後の電話で話したことを覚えている?
その約束を果たさないで、逝ってしまったemiy。

今でも私は、何で?どうして?と問い続けているんだよ。





3人の亡き友①K子

K子は小学校の時、転校してきた。
田舎の転校生は珍しい。お父さんが駐在さんだった。
3人姉妹の長女で、末っ子の私からみれば、とてもしっかりしていた。
体育も勉強も良く出来た。

そのK子が、中学に入ってから、体調を崩し入院をした。
退院後も「これから病院に行くねん」と言って薬を飲んでいるのを
見かけることがあった。。
「Kちゃん早く良くなって遊びに行こう」と励ました。
高校へ入ってからも、入退院を繰り返した。
学校の帰り見舞いに行くと「もう病院は嫌、早く学校に行きたい!!」
その時、部屋に入ってきたのがD君だった。
「そうだよなあ、病院は飽きたな」と言った。


高2になる春休み、散髪に行っていた父が手に新聞を握って帰って来た。
新聞を手渡しながら「K子ちゃん死んだぞ・・・」
「うそ!!」

父が指さす記事を見て、大きなショックを受けた。
大きな見出しで、K子とD君が横浜の外人墓地で心中した記事が載っていた。
春休みに入る前に、面会に行っていた私にはとても信じられなかった。
それから間もなく、他の友達から「Kちゃんのこと聞いた?」と電話がかかってきた。
後々判ってきたのは、私が面会に行った3日後、病院を抜け出したとのことだった。
何の力にもなれなかった無力さが悔しかった。

思春期の二人の心中、よからぬ噂が流れた、新聞の扱いも悪意のある物に見えた。
私には、それらの話は信じられなかった。
2人とも病気を苦にして、死を選んだに違いないと、50年経った今でも思っている。
病名は教えてもらわなかったが、生きる気力を奪ってしまうような、
質の悪い病気だったのだと思う。

採血

眼科へ行ってきた。
白内障の手術が夫の入院で延び延びになっている。
夫の病状は決して良くはならないが、悪いなりに落ち着いている。


闘病は続く命のある限り   タンポポ

そこで、ここらでそろそろ・・・と思った次第である。

色々検査をし、採血となった。
血管が細く、肉に埋まっているのか、採りにくいのは事実。
自分でもよく解っている。
しかし、毎月行く内科では失敗したことがない。

尤も以前行っていた内科では、ごくまれにしか採れなくて
しかも医師にも採れなかったので、医院を変えた。

眼科の看護師だって国家試験を通っているはず、でも採れなかった。
3度刺して痛いだけだった。
すっと採れるのは痛くないが、刺して針の先で探られると、めちゃくちゃ痛い。
手の甲で、採りたそうな様子だったので断った。手の甲で採ると後々まで痛いのだ。

看護師も医者も、採血をすっかり諦めた様子なのがカチンと来た。
内科で感染症がないかどうか、調べてきて欲しいと言う。


私だって下手な看護師に、何度も刺されたくはないので
内科で調べることにした。


↓何度か登場の拙句

穿刺失敗謝られても刺され損  タンポポ
kenkoushindan_saiketsu@.jpg

男の子女の子

先日新聞に載っていた温泉などでの、子どもとの混浴年齢上限の記事。
ちょうど次女が帰省中であったので、話しのネタにした。
2年生のKは母親と妹と3人で入っており、まだ一人で入浴が出来る
状態ではないようだ。
でもそろそろ教えていかないといけないねと話した。

その新聞記事の中、男性風呂で父親と一緒に入っていた女児の胸が
少し膨らんでいたのが気になった・・・という記事があった。
何歳の女児だったのかは解らないが、3~4年生にもなると早い子は
胸が膨らんでくる。

わがやの40歳を過ぎた娘たちも、4年生では少し膨らんでいた。
近所の無邪気な1年生が、「Sちゃんのおっぱい!」と隙を狙っては
タッチをした。

そして5~6年生では初潮を迎える子が多い。

長女は6年生の秋、次女は身体が小さかったのに、5年生の3学期が始まって
すぐだった。
6年生のこの頃には、先に迎えた子も多く、誰それさんも誰それさんも、
もうあったんだって・・・と娘もすんなり受け入れた。

しかし5年生の3学期だった次女は、受け入れられなかった。
「みんなまだ恥ずかしくて黙っているんじゃない?」と言ってみたが
泣いて嫌がった。
学期はじめには身体測定があり、男の子も女の子もパンツ一つになる。
その時みんなにバレルのが嫌だと泣いた。
仕方なく学校へ出向き、保健室の先生に相談した。
先生は「おめでとうございます。大丈夫ですよ、初潮を迎えた女の子が増えてきたので
3学期からブルマ着用にします」と言われた
一件落着である。身体測定も無事に終えた。
その後女の子の間では、告白しあったようで「よかったぁ~安心したわ」とこちらも一件落着であった。

あれからもう30年以上経った。

男の子もこの頃には変声期を迎える。孫のSも6年生の終わりには、すっかり声変わりをしていた。
声変わりをした男の子の歌声が、すばらしいと思ったのは中学3年生の文化発表会だった。
男の子を育てていない私には、とても新鮮だった。

そして5歳の孫娘T、あんなに好きだったY君には見向きもしないで、同じクラスの
女の子と結婚するのだと言う。
これはどこかで同性結婚が認められたことを知って「じゃぁ大きくなったら結婚しようね」と
言うことらしい
こんな無邪気なことを言っているが、すぐ母親が経験した年齢になる。
その時、娘は自分が初潮を迎えた時のことを思い出すだろうか。

限りある命

関東に住む川柳仲間が、ブログ上で癌を公表した。
胃癌だと思っていたのが膵臓癌と発覚、すでにあちこちに転移していて
余命3ヶ月だと言う。
抗癌剤治療や放射線治療をしても余命は半年だそうで、延命治療をせずに
楽しく暮らしたいと本人の希望。
とはいうものの、きっと強烈な痛みにも襲われるだろう。
恐らく最後まで楽しくとは行かないと思う。
どうぞ貴方らしくその時を迎えて・・・としか言えない。


膵臓癌は怖い。
約40年前、出向先から公務員宿舎に引っ越しをした際、階段の方々に
挨拶に伺った。お母さんが入院中のお家が一軒あった。
入院したのが3月末と聞いた。そして亡くなったのが7月だった。

長女と同い年の女の子がいて、すぐ仲良くなり毎日一緒に遊んでいた。
そしてその日は、幼稚園の七夕発表会の日にやって来た。
ケータイのない時代、幼稚園に連絡が入ったのだろう。
お父さんが急いで、出て行くのが見えた。

一度もお顔を拝見することもなく、お声を聞くこともなく逝ってしまわれた。
たしか35歳だったと思う。

35歳になったとき、何かあるのではないかと不安で怖かった。
大きな宿舎だったので、住んでいた間に何人ものお母さんが亡くなられた。
まだ小さな子どもを残して、逝かなければならないお母さんたちの気持ちは
如何ばかりだっただろう。


仮に今、私が死ぬことになれば、一番の心配は病身の夫である。
40歳を超えた娘たちに心配はない。

少し涼しくなったら、その時に備えて断捨離をせねば・・・。

これは夏休みの宿題?

超不器用な娘が、おしゃまな女の子を持った。

帰省前、フェイスタイムをしていると「おばあちゃん、Tねヒラヒラのついた
エプロンが欲しいの。お母さん出来ないからおばあちゃん縫ってぇ(*^_^*)」と言う。
お兄ちゃんのKが、お手伝いするのにエプロンが要ると言って縫ったのも、Tと同じ
年の頃だったと思う。
このときまだ小さかったTには、ワンピース型の縫った。
おしゃまになって、お姉ちゃんエプロンが欲しいのだそうだ。

そして帰省中、娘が一日だけ予定を入れてなかった日に、近くのショッピングモールへ
Kのちょっと遅い誕生日プレゼントと一緒に、生地とレースを買いに行った。
たくさんの生地の中から、迷って女の子が好きそうな生地を自分で選んだ。

すぐにでも出来ると思っている、五歳児のT。
ばあちゃん、ご飯の用意もしないといけないし、そうそう簡単には作れませんよ。
宿題を仰せつかったのは、レースとフリルの付いたエプロンと、移動ポケットの二つ。

移動ポケットって??
お店で見本をみて、こんなものかなと縫ってみた。
ポケットティッシュとハンカチが入ればいいらしい。
スカートのウエストにクリップで留めるようになっている。

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そしてフリルとレースの好きな女の子のエプロン。
モデルは帰ってしまい、テキトーなバアチャンが適当に縫ったエプロン
フリルとレースでごまかせると思う

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正式に洋裁を習ったことのないバアチャン、それなりに苦労したのだから
負けといて~

高校野球

今、地元は高校野球で賑わっている。
2~3日前、いつも行くスーパーの駐車場入り口で、ガードマンさんから↓の
カードを渡された。
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甲子園球場からあまり離れていないので、カードを
渡されることは珍しくない。
おやっと思ったのは、カラーコピーでA4サイズの大きなカードだったから。

今球場の付近に、駐車場はほとんどない。
だからスーパーの駐車場に、車を置いて球場に行く人が後をたたない。
帰省時期と高校野球が重なって、遠方№の車も多い。
スーパーとしては頭の痛いところだろう。

毎日応援バスが何台も連ねて走る。
都会の大きなバス会社なら、ズラ~と20台30台同じバスが走っている。

そこへいくと地方の応援バスは、バス会社一社ではバスが揃わないのか
何社かのデザインの違うバスが走っている。
ベスト8ベスト4と回がすすむごとに、応援バスの台数が増える。
そういうのを見るのも地元ならではの見方だろう。
負けたチームのバスは、幾分力なく甲子園を、後にしているようもにみえる。

頂点に立つのはたった一校だけ。
チーム力、技術、精神力、強靱な肉体、勝利を願う気持ち、それに多少の運もあるだろう。
2015年はどこの代表が頂点に立つのだろう。あまり野球に詳しくはないが楽しみではある。

孫台風は

午前中に和歌山へ進路変更をした。
はぁ~ヤレヤレ。ジイチャンバアチャン解放されましたとさ。
滞在は短かったのに、今までで一番疲れたように思う。
5歳7ヶ月と8歳、手間はかからなくなったのだが・・・。
恐らく毎日病人と静かに暮らしているからだと思う。

それにしても子どもはなぜ、あんなに元気なのだろう。
もっとも子どもに元気がなければ困るが

娘はびっしり予定を入れていて、予定を入れてなかったのは一日だけ。
4泊5日、子どもたちは十分楽しめたと思う。
小2のKは、スライダーのあるプールに行きたいと言っていたが、
室内プールならともかく、バアチャンも屋外のプールはご勘弁。
娘一人で二人を連れて行くのは無理、お父さんが一緒に来たときと
言うことで却下。

友人と行ったキッザニア甲子園が一番楽しかったらしい
キッザニアは、日本では東京と甲子園の二カ所しかない。

クロネコさん、パイロット、ブティック、消防士、お菓子作り、歯医者さん、研究者、etc.
色々体験できたようで、帰ってきてからも興奮して喋りっぱなしだった

お正月に来たときも行く!と意気込んでいる。

東京で行けばいいようなものだが、東京は中々予約が取れないのだそうな。


キッザニア1@





兄嫁のこと

訪問者の少ない拙ブログではあるが、どなたが見ているかは解らない。
そのブログに、わざわざ書くことではないのは解っているが、
気の向くままに書いておこう。

高齢になって仕事が出来なくなった両親を、邪魔者扱いした兄夫婦と甥。
その結果、2月の寒空の下、留守の我が家の玄関に、置き去りにした。
兄は嫁のいいなりになったとしか思えない。
いいなりになること自体腹立たしい。
舅姑と同居したことのない私には、計り知れないことがいっぱいあったとは思う。
ただ兄嫁が嫁いで来たときには両親とも若く、私の祖父母も同居していた。
それが解った上で嫁いで来たのだった。

我々姉妹は母がまだ元気な時から、「年取って、寝たきりになるかも知れない
そんな時、偶にくる娘たちは、ああすればいいのに、こうしてやればいいのに・・・と
絶対に言ってはならない」と堅く釘をさされていた。

3人は言いつけを守った。そのあげくの置き去り事件だった。


そして今、70歳の兄嫁は脊椎管狭窄症で、家事もまともに出来なくなっている。
もちろん農作業は出来ないし、車の運転も出来ない。

病気や怪我は誰がいつなるかは解らない。
健康自慢だった夫がそうだ。
問題は誰もが順番に年を取ると言うこと。
兄嫁はそれを忘れていた。
そして自分の身体が、衰えてくることも忘れていた。

私が両親も最初から年寄りだった訳ではないと言った時、
どれだけ怒られたか・・・。

そして姉と市役所の長寿福祉課に相談に行った。
日々の言動から、あるいは我が家に置き去りにされたことを含め、
老人虐待と受け止めた市が、驚く早さで施設入所を進めてくれた。
両親が施設に入ることになった時、役所の人や、施設長、ケアマネさんの前で、
「もう年寄りとは一緒に住めない」と言い放った。

その兄嫁が、6月から圧迫骨折で入院している。
圧迫骨折=骨粗鬆症=老化現象

当然父の法要には出られなかった。
病院のベッドで考えて欲しい。
順番に年を重ね自分も年を取り、圧迫骨折になったことを自覚して欲しい。

我が家の玄関に置き去りにされた時、父は95歳、母は84歳だった。
それに比べると、兄嫁はまだ70歳。
要介護の認定を受け退院に向け、家をリフォームをするらしいが、
息子夫婦から、身体の動かない者とは一緒に住めないと、言われたら
どうするのだろうか?
娘のところに置き去りにされたら、両親の悔しさ情けなさを計り知ることが
できるだろうか?

天に唾吐くと自分にかかる、それを解って欲しい。

   @R0023810.jpg


さて我が家は、明日から孫台風の襲来である。
普段病人と静かに暮らしているが、5日間は
荒波にのまれる覚悟をせねば・・・

往復の大渋滞

4日は父の初盆の法要であった。
11時に実家へということで、かなり余裕を持って8時過ぎに出た。
ところが阪神高速に乗ると、いきなり二車線がびっしり・・・。
のり口に事故渋滞の表示はあったが、これほどとは思わなかった。
何とか走行車線に入るも動かない。
料金所は、すぐそこなのに動かない。
やっと料金所にたどり着きETCが「ピンポ~ン」と軽い音を響かせるが、
先に進めない。前をみると、ずら~~と車・車・・・。
そして15㌔ほどの間、アクセルを踏むこともなくずっと10㌔以下で
、のろのろ運転である。
2時間走って、やっと淡路SAに到着する。
ノンストップで行こうと思っていたが、とても11時に実家に到着できない。
遅れて行って、すぐお手洗いに行くのもどうかと思い、用を足して走る。
甥の嫁さんにLineで遅れる旨を連絡する。

淡路島の道路は空いている。走れ走れ!!
高速を降りて、あと10分ほどで実家に到着する場所で、無情にもカーラジオから
11時の時報が流れる。
渋滞がなければ、1時間半もあれば到着するのに・・・。

到着した時、まだ読経は始まっておらず、辛うじてセーフ
読経が終わると、庭で迎え火を焚いた。

田舎も、こちらと変わらず暑かった。


この日は、帰りも大渋滞であった。


渋滞の列でガソリン浪費する   タンポポ

夏祭りと今時ゆかた

3日間の夏祭りと、1日置いて父の初盆が無事に終わった。
私に少々の腰痛を残して終わった。
私が住むマンションだけなら、380戸なのでたかが知れている。
近くに大規模な公団の団地があり、○○町夏祭りと銘打っての大規模な夏祭りなのだ。

ここに越してきて夏祭りに行ったのは今回と、もう20年ぐらい前の2回だけ。
その時は、今ほど大がかりではなかったと、記憶している。
5~6年前に少子化の影響で、小学校が一校廃校になった。
それでも子どもが多いと感じたのは、華やかなユカタを身にまとってグループで
闊歩するからだろうか?

我が自治会はドリンクの販売をした。
各自治会やスポーツクラブでは、実にいろいろな模擬店を開いていた。
全ての模擬店はは、自治会やPTAスポーツクラブ、あるいは子供会の主催である。

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冷たいドリンクの販売とはいえ、売る方は汗だくである。


tikay@.jpg子どもたちをみていると、ほとんどがドレスのようなフリルやレースの付いた
上下に分かれた短いユカタである。
サンダルを履いて、洋服感覚で着ている。
柄も浴衣柄とはちょっと違う。いやに華やかな洋柄が多い。
帯もチュールで華やかだ。

尤も孫娘Tも今年はこんなユカタを買ったそうだ。
娘に言わせると不器用なお母さんにとっては、着せるのが簡単でいいと言う。

アプリ(追記あり)

iphoneに温度計のアプリを入れてある。
いえね温度計は、自宅の壁にかかってますが、あくまでも室内温度なので・・・。
アプリはどうやら外の温度らしい。
恐ろしいことに34度とか35度と表示される。

こんな日に夏祭りってどうよ!
自治会役員のお努めががあるので、
今日明日、出かけなきゃ。
熱中症が怖い。

14時半現在36℃見なけりゃいいのに見てしまう・・・(^_^;)