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両親のこと⑤

一人息子の兄は実家に久々に産まれた男児で、曾祖母がネコかわいがりをしたと言う。やんちゃ坊主の息子を父が叱ろうとすると、この曾祖母が父の前に立ちはだかって「〇〇を怒るなら叩くならこの私を叩いてくれ・・・」と言ったと聞く。
すべてがこんな感じで大事に、甘やかされて育ちろくな男にならなかった。
こんなろくでもない男になった責任の一端は、もちろん両親にもある。
しかしながら曾祖母の甘やかしの前には、両親もなす術がなかったのだろう。

兄が結婚した時は、私の祖父母が健在であった。もちろん同居である。
起きるのは遅かったが、食事の用意は手早く味付けもよく料理上手であった。
農家の嫁としても、よく働く働き者であった。みんなで大事にした。
そのころ祖父も両親も畑仕事の合間をぬって仕事に出ていた。
その祖父母は30数年前に亡くなった。

みんなが働きに出るからか、兄嫁は結婚後一度も働きに出ることはなかった。
言ってみれば世間知らずのお山の大将である。
よく働くがよく病気もした。

30年ぐらい前に家を建て替え、そのころから家の財布は嫁に渡った。
両親はずっと働きに出ていて、その収入のほとんどは家に入れた。

結婚後10年ぐらいは上手くネコをかぶっていたのだ。
目に見えて様子がおかしいと感じるようになったのは17~8年ぐらい前だったか・・・
母がいやに嫁に気を遣うのが見てとれた。
我々が顔を出すのがいけないのかと思うようになり、気にはなりつつ足が遠のいた。

今102歳の父は85歳ぐらいからゆるやかに認知症になっていった。畑仕事も出来なくなった。この頃から両親は辛い思いをしていたようだ。
置き去りにされる何年か前に、兄から電話がかかった。開口一番「もう年寄りの面倒はみない。引き取りに来い!」3人の姉妹の中で私だけが車に乗るからだろう。その手のことは末っ子の私にかかってきた。
妹ということもあっただろう。
その時は長姉がしばらく預かるつもりで、息子と迎えに行ったが結局父は来なかった。

母には妹が2人いる。大阪にいる叔母も大体の事情が解っており、姉である母に会って話がしたくても出来なかった。そこで12~3年前、田舎で母の姉妹夫婦、両親と娘3人と、女のいとこの計11人で、どこかで泊ろうという話になり田舎で宿を取った。
その時、兄嫁は自分を誘わないと言って文句を言った。
集まるメンバーをみれば、自分が参加できるものかどうか解ると思うのに怒った。
母の姉妹夫婦といとこの集まりなのに怒った。怒りを鎮めるべく遅ればせながら誘うと「今回は遠慮する」とのたもうた・・・。
もし誘って一緒に泊まっても居心地が悪かっただろう。

そしてこの時、一泊したら家に帰らず娘たちの家に行くよう言われて、我が家に両親を連れて帰ってきた。
それまで何度も我々娘は両親を旅行に誘ったが、兄夫婦に遠慮し「忙しい」を理由に実現しなかった。
実権を完全に握り、お山の大将になった嫁に兄も両親も手が出なかった。

母の遠慮解ってますかお義姉さん   タンポポ


特養に入所が決まった時、義姉は私たちに向かって「あんたたちは親を捨てて、家に恥をかかせた」とまたまた怒った。

留守の我が家の玄関先に、年寄りを置き去りにしたのは忘れたらしかった。


両親のこと④

重い内容が続きます(-_-;)



翌日から両親は、10日間の泊りのデイサービスからスタートした。
その間3回、両親、4人の子どもと嫁、孫、そして施設の所長、職員、市役所の担当者、ケアマネージャーと話し合いを持った。
これは我々身内だけでは話が出来ない、困ったケースということである。

嫁はみんなの前で「年寄りとはもう一緒に暮らせない」ときっぱり言い放った。
その横で「お前たちが勝手にしたこと、わしは知らん」とまだ言うアホな兄。

結局申請は兄がするということで、落着し特養に入った。
そして条件として兄から「両親のこと、実家のことに一切口出しをしない」旨の法的には何の効力もない誓約書を書かされた。

元々口出しはしていない。
母がまだ元気だった頃から『これから歳を取って寝たきりやそれに近い状態になることがあるかもしれない。そんな時、たまに帰ってくる娘たちは「ああしてやればよいのに、こうすれば・・・」ということを一切言わないように・・・』とくぎを刺されていた。
3人はそれを守って来た。
しかし、虐待、置き去り事件に関しては口をつぐんでいるわけにはいかなかった。

特養に入ってから、我々3人の姉妹は月に大体2度は面会に行くが、地元にいる兄夫婦は行かない。
その方が両親の心に波風が立たずいいだろう。

施設に入って3日目か4日目に、母に届けるものがあり特養に行った。出て来た母は数年来見たこともないほどの満面の笑顔で、開口一番「ここにいると天国じゃ」と言った。
朝はこちらから言う前にお早うと挨拶をしてくれる、毎日大勢で食事をする。こんなことで年寄りは喜ぶのである。
施設に入れて本当によかった。父の顔もずいぶんと優しくなった。

どの職員さんもにこやかでよくしてくれる。
実家にはなかった両親の笑顔が、この特養で戻った。感謝してもしきれない。

シニアナビを拝見していると、ヘルパーさんとして働いている方がたくさんおられる。毎日大変なお仕事なのに皆さん明るい。ありがたいことです。



ホームに親捨てて来たのじゃありませぬ   タンポポ
  

約半年で父は特養を出て、病院と併設のケアハウスを行き来する暮らしになったのは残念である。
そして母も4年後、大たい骨骨折をして入院し、その後リハビリ施設に入った。
特養には「3か月部屋を空けると退所」という規定があり母も退所した。
今は父と同じケアハウスにいる。

これ以上曲がる余地ない母の腰    タンポポ



両親が無事施設に入った時から、いずれ必要になるかもしれないと、3人で年金の支給月に積み立てを始めた。
両親の命の火が消えるまでは続けていこうと話している。

両親のこと③

重複する部分があります。

神様はよくみているもので、割合早い時期に兄嫁に罰が当たった。
鬼のような、否鬼そのものの兄夫婦に当たった罰とは・・・。
兄嫁に新たに癌が見つかり、脊椎狭窄症も発症したのだと言う。

恐らくもう農業は出来ぬ身体になるであろう兄嫁と、たいして仕事をしない兄。さてこれからどうなるのだろう?
願わくは2人にもう少し年齢を重ね、歳を取るしんどさを味わってもらわねばならない。
両親とも長い間毎日田圃へでていた。
農閑期には現金収入のある仕事にも行っていた。


話は両親が置き去りにされる前にさかのぼる。

この頃のことを思い出すと泣けてくる。

置き去りにされる2週間前、母は貧血で入院した、入院を勧められた母は、「嫁の許可をもらわないと自分では決められない」と言った。
一緒に行っていた私が電話で連絡をし、なんとか許可を得る。
約2週間の入院で退院となった。

退院の日「家に帰るのが辛い・・・」とおいおい泣いた。
自分の産まれた家に帰るのが辛いと、泣く母に私も姉も言葉がなかった。
なんとか気を紛らわせてやりたいと思い、市内の有名なしだれ梅を観に連れて行った。
しかしこれさえも嫁の気に入らなかった。
「退院の帰りに遊びに行くとは何ということだ」と怒った。

そして、頭が下を向くほど腰がまがっている母に「そんな姿になってもまだ入院して生きていたかったのか・・・」と暴言を吐いた嫁。
日常的にこんな暴言を浴びせられていたのである。

その後、67日間私の家で過ごすことになった。
そして②に続きます。


市役所からの入所決定の知らせを受け、それまでの10日間をまた我が家で過ごした。
兄夫婦も両親を施設に入れようと、市役所に行ったことがあったらしい。しかし手も目もある大家族では叶わず却下された。
まして所帯主の兄や義姉が行かずに息子の嫁が行った。
ここは兄夫婦が行かねば・・・。
その経緯があり、我々の相談から入所が決まったことに怒り狂う兄夫婦とその息子。
自分たちがしたことに気付かないのだ。

感謝されても叱られる理由はないはず。
大事にしていた親を、横から他人ばかりの中に放り込むのではないのだ。
邪険にされ口汚く怒られ続ける両親を、保護する目的で入所させるのだ。
なんとかこれから先、安全で安泰に過ごさせてやりたいのである。
市も家族からの暴力から救わねばと、驚くほどスピーディに入所を決定したのである。
こんな簡単なことが解っていない、自分たちのしたこともわかっていないのだ。

両親が施設に入ることに納得しない一家、おかしな話である。
日常的に暴力を振るっていたことは、父の身体にも心にも残っていた。姉の家に行った父は「○○(息子)が恐ろしい」と身を震わせた。

デイサービスでお風呂に入れてもらう時、腰の痣を見た係りの人が父に聞いてもハッキリせず、母に聞いたことがあると言う。
これは父がほんとに解らなかったのか、或いは息子から暴力を受けたことを恥じて隠したのかはわからなかった。
母には解っていたが、この時点ではまだ父が言わないことを、母も言わなかったのだ。

入所は4月20日、私の誕生日だった、前日「簡保の宿」で親子5人で泊った。父は忘れているが、母はよく覚えておりいい思い出になった。
母とお風呂に入っていた長姉が出てきて言った。「何と他人さんの親切なこと」脚腰の悪い母がお風呂に入って行くと、見ず知らずの方がわざわざ浴槽から出てきて、手を差し伸べてくれたと喜んだ。

他人だから出来るのかも知れない。毎日一緒に暮らしているとうっとうしいだけの邪魔者なのかも・・・。

私は結婚してからずっと、夫婦と子供だけの核家族であったため、親と一緒の生活はどんなものか解らない。

ただ両親も昔から年寄りだったわけではなく、みんなが順番に歳を取ることを忘れてはいけない。

今兄夫婦は68歳、両親のその年代の頃は、元気で仕事に行き帰ってくると田圃に行って仕事をしていた。

兄嫁はすっかり動けなくなって、農作業はもちろん車の運転も出来なくなった。
腰の曲がった母に非常な言葉を浴びせたが、自分もだんだん腰が曲がってきている。


恥を忍んで④に続けます。

両親のこと②

どなたが見ているかもわからないネットの世界で、全てをあからさまにするのには不安がある。
兄夫婦はPCを触らないが、甥は触る。だれかを通じて知る可能性もある。
両親が天寿を全うし、父が建てたお墓に無事入るまでは、兄夫婦や甥に知られるとまたひと悶着が起きるのは必至、でもここでの私を知っていただくには高齢の両親のことも、知っていただきたいと思う。

外部のブログに数年前アップしたことがあるので、お読みになった方があるかもしれない。

両親は8年前の2月の26日、誰もいない私の家の玄関に置き去りにされた。実家からは何の連絡も前触れもなしに、荷物のように置き去りにされた。

宅配便でも、留守伝票を入れて再配達をするというのに置き去りにしたのは、可愛がってもらった孫(兄の長男)である。
認知症の父と足腰の悪い母を置き去りにすればどうなるか、考えが及ばなかったのだろうか? 
まだその時の父はしっかりした足取りでよく歩いていた。

2月の末日まだまだ寒い日であった。
私が半年に一回の股関節の外来から帰ってきたのは6時を過ぎていた。、エレベーターを降りて目を疑った。
田舎にいるはずの両親がいたのだ???何で?どうして・・・?

家に入ってヒーターを点けてヒーターの前に両親を坐らせ、顛末をきいた。
腹が立つやら情けないやら。こんな仕打ちが許される筈がない。
姉妹3人で話し合って、母を私が大阪の長姉が父の面倒を、落ち着くまでみることにした。
ほぼ着の身着のままで冬の寒い中、娘の家の玄関に置き去りにされた母の悔しさ情けなさを知る由もないのか、実家からは母がいた約2カ月の間、一本の電話も寄こさなかった。

今まで私たちには話さなかった、兄夫婦による 数々の暴言と暴力を母の口から聞いた。
こんな酷い仕打ちに耐えてきたのは知らなかった。このころの母は記憶が鮮明でその鮮明すぎる記憶力さえ、兄夫婦の気に入らなかったのである。
食事は一緒のテーブルに着けず、両親だけ後からだった。
毎朝「お早うさん」の挨拶に応えてくれるのは、孫の嫁さんとひ孫だけで、兄夫婦も孫も知らん顔・・・・。
こんな状態の実家に我々は電話をかけるのも躊躇した。

この年の夏、我が家では次女が第一子を出産する予定であり、出産後はしばらく我が家に身を寄せることになっていた。
娘が来るまでは面倒をみるつもりで、近くのデイサービスに行く手続きをしていた。ところが母は、「デイサービスなら今まで行っていた田舎で行く」と言うので3人の姉妹で相談し、約2か月後神戸の姉と一緒に、取り敢えず母だけを連れて帰った。

車から降り庭に入ると兄がいた。じろりと睨んだ口から「帰ってきてもいいとは誰も言ってない!!」と信じられない言葉を聞いた。
そして家に入ろうとする母を叱責した。

それでも兄嫁が帰ってくればなんとかなるだろうと、気がかりながら実家を後にした。
悔しかった、情けなかった。
この日は何とかなっても、産まれた家のどこにも母にも父にも居場所のないことは判った。

その足で市役所に行き、両親のことを相談したのだった。

私も姉も、年寄りと言えど人権があり、あの兄の言葉や、荷物のように置き去りにされるなど、人権を無視するのも甚だしいと思った。
市役所の福祉課の方が詳しく真剣に、我々の訴えを聞いてくれた。そして市役所の決定は、我々姉妹がビックリするほどスピーディだった。「老人虐待」と取ってくれたのだ。
色々考えれば老人虐待そのものなのである。そして早速特養の入所が認められたのだった。
決定の連絡が入ったのは、市役所に相談にいって4日目だった。

決定したことでまた一波乱があったが、また続きは後日書くことにする。



やはりこの時のことを思い出すと、両親の悔しさと嫁いだ我々の無力さで涙が出てくる。

手術のことを

夫はどう考えているのか、ずっと気になっています。
今日思い切って訊いてみました。

「考えないようにしている」と一言、あっさり言ったきり次の言葉が出てきませんでした。
これはどこかにもしかしたら・・・の思いがあるのではないかと、思います。

う~~ん、手術の成功を信じたいし、成功して老後を自宅でゆっくり暮らしたいと、私も願っています。
今は私の気持ちを考える余裕がないのかも知れません。

でも一日がかりのハイリスクの手術です。何があるかは終わってみないと、医師にも解りません。

もしも何かあった時、私はどうすればいいのか・・・。
悪いことばかり思ってしまいます。


私もそうですが、夫も遺言は書いていないと思います。
その場合、たとえば葬儀、関西ではお香典を辞退することが多いのですが、どうするのか?
葬儀場は?


娘二人の私たち夫婦にお墓は要りません。永代供養のお寺を考えています。

今の夫に遺言書を書くように迫ることも出来ません。




シニアナビの皆さんは用意されていますか?


誕生日ごとに遺言書き直す     伸



両親のこと①

シニアナビに以前アップしたものを、私の覚書として同じ日付でこちらに引っ越しました。
①~⑥までありますので、順次引っ越します。

施設でお世話になっている、両親のことを書いてみたいと思います。
両親は田舎で農業をしていました。
母には妹が3人と弟が一人ありましたが、弟と妹一人は子供のころ亡くなりました。
勝手な想像ですが、母が結婚したころは戦争中で、健康な男性はみんな戦争に行っていたのでしょう。
弟が亡くなったことで、父を夫として迎えました。
もう70年少し前のことです。
父は若いころ少し体が弱くて、徴兵検査に受からなかったと聞いています。
二人の間には娘が3人と息子が一人授かりました。
長女、次女、長男、三女(私)の4人です。
1人授かった息子は、曾祖母の可愛がりようが尋常ではなく、わがままいっぱいの男になりました。
曾祖母は私が幼稚園の時に86歳で亡くなり、その後、両親、祖父母、私たち4人で暮らしていました。

昭和43年に兄も結婚をしました。
わがままな息子に来てくれたお嫁さんに、姑の苦労をしていない母は姑の苦労を、させないようにと気を遣っていました。
ハネムーンから帰った嫁さんに「若いときはいくら寝ても眠いものだから、早く起きなくていいよ」と言いました。
その言葉通り、母より早く起きることはなかったようです。
兄夫婦にも子供が二人授かりました。
その子供たちが幼稚園に行く前に祖父母は亡くなりました。
その後も、表向きは仲良く暮らしているようにみえていました。
その子たちも成長しそれぞれに家族が出来、大阪に出ていた長男夫婦が田舎で働くため子供を連れてUターンしてきました。また8人の大家族になりました。
12~3年前のことです。

父はその頃すでに認知症の症状が出ていました。
段々家族の関係がギクシャクしてきました。
8年前のある日、母が貧血で入院したと連絡があり、二人の姉と一緒に病院へ行きました。
その時の母の嬉しそうな顔が今も忘れられません。そして退院の日、姉と私が迎えに行きました。
すると母は「家に帰るのが辛い・・・」と泣きました。
自分が生まれて80年以上いる家に帰るのが辛い・・・姉と二人でどうしたものか、何があったのか解らぬまま、暗い気持ちで退院の手続きをしました。
そこで近所のお婆さんと会ったので、一緒に食事をしてお婆さんを家まで送り、母を実家へ連れて帰りました。
それから2週間後、何の連絡もなく留守宅の我が家の玄関に、両親が置き去りにされるという大事件が起きました。

宅配便でも留守なら再配達をする時代なのにです(-_-メ)

頭が回らない

これは頭痛のせいだけではなさそうです。
お陰様で頭痛はまだ少し残っているものの、ずいぶんよくなってきました。

プロフィールの自己紹介に書いたように、川柳の教室に長年通っていました。
今教室は休んでいますが、季刊誌の投句やネット句会には参加しています。
ネット句会2か所の1月の投句を考えようとするのですが、思考回路がどこかでぷつんと切れたようです。

  

唇で受ける幸せ目をつむり   田中南都

恋をした頃に覚えた花言葉    同

息子の青春警察から電話     同


こんなユーモア句を詠みたいと頭をひねっているのですが・・・。



104歳で亡くなった柴田午朗氏の句から

恋人も一緒になればただの妻   柴田午朗

朝みがく昼夜みがく総入れ歯    同

ふるさとを跨いで痩せた虹が立つ  同

今日は雨 寿命が一日延びました  同


相見積もり

今日の頭痛は、少しましかな?


昨年の医療費が、あまりにも高額だったので諦めようかと思った、お手洗いのリフォームを、やっぱりすることにしました。

来月、人工血管再置換手術をして、その後、自宅に戻ってくることが出来るかどうか、今は全く解らない夫ですが、巧くいって帰ってくることが出来たら、お手洗いに手すりが必要になると思うのです。

先日から相見積もりを取っています。
ウオシュレットは、まだ交換して間がないので再利用です。

①チラシから、②お風呂をリフォームした会社、③ネットからと3社で見積もりをとりました。

それぞれ違った金額を出してきますので悩みます。

最高金額の③と最安値の①との差は97600円・・・。
マンションの一番狭い場所のリフォームで、これだけの差がでるとは・・・。
最安値を出してきた業者は下請・孫請会社を通さず自社スタッフが施工するため、中間マージンが発生しないので安く施工をすることができるようです。

う~~ん(?_?)出費は少ない方がいいに決まっているけど、安かろう悪(雑)かろうでクロスがすぐ剥がれるようでは困るし、一人で決めるのって難しい。

家のことは私が仕切っていたと思っていましたが、こんな場面に遭遇すると、いかに夫に頼り切っていたのかよく解ります。

頭痛

内科で処方された風邪薬を、金曜日から3食後きっちり飲んでいるのにまだ頭の痛いのがとれない。
鼻づまりが解消されたら頭痛も治まると思うのだけど・・・。

それにしても長引いている。
一晩寝たら治っていたのは30代の頃だったか・・・。
薬が一週間分出ているってことは、一週間治らないってことだろうか?

二日間夫の病院へ行ってないので、今日は行かなきゃね。


限定商品

なんて書くと何だか高級品に聞こえますね~(^_^;)

私が月に1回通う内科は、西宮戎神社の近くにあります。
昨日はその内科の予約日でした。いつもの薬と風邪薬の処方箋を貰って、ちょっと買い物をしました。
十日戎から一週間も経っているので、もうないかなと思っていましたが、ありました。
そう「えびすあんぱんです」えびすあんぱんと言うことで、戎様の焼き印があります。
中のあんは黒豆のようなお味で、真っ黒いこしあんでした。美味しかったですよ。
地域限定品だそうです。


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1月17日 19年経ちました

風邪は回復半ばです。

阪神淡路大震災から19年が経ちました。

私の親戚や友人は大きな被害を受けました。
でもたくましく生活を再建することができました。
東日本大震災と比べることは出来ませんが、やはり当事者にとっては忘れることの出来ない大震災です。


我が家も入居して4年目、多額のローンを抱えていた自宅で、ド~ンという大きな音と揺れで飛び起きました。

まず電気と水が使えなくなりました。
1時間ほどして電気は復旧して、買い置きの水でコーヒーを沸かし夫と次女は出勤しました。

ガスは当日、夕食の準備をするまで使えていました。
あの日の夕方、お水を求めて右往左往していると、当時大阪で一人暮らしをしていた長女が、自転車で帰ってきました。
電話が不通で連絡がつかないことが、不安で堪らなかったそうでした。
「もし自分だけが残ったらどうしよう・・・」と不安をいっぱい抱えて、車の間をぬって自転車での帰宅でした。
薬缶を下げて歩いているタンポポを見つけた長女の第一声が「あ~よかった、みなしごになったらどうしようと思った」もう成人していたので「みなしご」はないでしょうけどね。
親を煩がって家を出ていたのですが、やはり一人になるのは恐れていたようです。

当時、次女は神戸で勤務していました。
バブルがはじけたころの卒業で、就職がなかなか決まらず仕方なく、夫のコネで船会社に就職し1年目でした。
あの日普段と変わらず家を出たのですが、最寄駅構内に隣の工場の煙突が倒れ、電車が不通になっていると言って帰ってきました。
通勤手段がなく2日ほど家にいましたが、電話が復旧後、会社から関空経由で出勤してくるよう、指示が出されました。
尼崎まで行って高速バスで関空へ行き、そこから船でポートアイランドの会社へと出勤していきました。帰りは大阪の長女のところでお風呂に入ってきました。

自宅はガスが4週間・水道が3週間、止まったままでしたので、銭湯の情報を聞いては寒い中、長時間待って入りに行きました。
でもせっかく入ったお風呂も、途中で水がなくなるトラブルがあったり、1回の入浴時間が制限されたり・・・。

公務員の夫は有事のときこそ出勤せねばならず、自転車や原付で三宮まで通勤でしたし、帰りも遅く銭湯の空いている時間に帰ってこれず、平日は全く入浴出きませんでした。

この間、娘が休みの日、自衛隊の船まで水を貰いにいくと優しく言葉をかけていただき、タンク5個も車に載せてくれました。

レバーを下げれば水もお湯も出る生活が一変し、どんなに水がありがたいものか、この時初めて知ったのでした。
4週間たって自宅でお風呂を沸かせた時の嬉しさは、今も忘れられません。

食料品もそうです、お水がないと野菜を買っても洗うことが出来ません。
スーパーの惣菜が出てくるのを、調理場付近で待って取り合いでした。
被災地の避難所には、ありあまるほどの食料が回ってくると、ききましたが、町から毎日食べるパンや牛乳が消えました。
これは被災地に優先して運ぶという取り決めがあるそうですが、自宅で暮らせていても食べ物が手に入らないという事態に、お金があっても欲しいものが手に入らないという現実に、パンやガスボンベを求めて原付で走り回りました。



倒れたマンション、パックリ横割れをして行く手を阻む道路、センターラインで割れた道路、新幹線の橋脚が折れた現場、バスが半分落ちかけている阪神高速道路、どれも鮮明に覚えています。

                        
被災地へ急ぐ背中の水の音      天根 夢草

平成七年一月十七日裂ける      時実 新子 



あの頃生まれた子供たちも、もう大学生だったり受験生です。 
月日の経つのは早いなと改めて思います。
そして夫もあの時は若くて元気だった・・・。       





ぶったまげの医療費

まだ洟がでて頭が重いです。


我が家の昨年の医療費を、ざっと計算してみました。
100万を少し切っていますが、病院へ行く交通費も含むと100万を越えます(>_<)
これには食道抜去した際のパウチなども含んでいます。
ただ医療費の還付申告をするには、ストマーを使用したと言う医者の証明書がいります。もちろん無料で書いてくれるはずもありません。


それよりショックなのは、年金生活者の我が家の税金の納付額がごくわずかで、納付した金額以上のものは返って来ないことに気づきました。
当たり前と言えば当たり前なのですが、100万もかかったのに・・・。
まして医療保険に入ってない夫は、丸々持ち出しです。

何であの時古女房の言うことに、素直に耳を貸さなかったのだろう・・・。

ならば死んでもらいましょう・・・と言うわけにもいかず、年金の中でやりくりをしなきゃなりません。

今おトイレのリフォームとソファーの買い替えを、検討しているのですがお預けになるかも・・・(T_T)

こんな状態で、よくなるものもよくならないタンポポの風邪です。

今年も忘れていた

まだ少し頭が重いですが、だいぶよくなってきました。
今日一日家でおとなしくしています。


昨日は我々夫婦の44回目の結婚記念日でした。
前日までは覚えていたのですが、話題にあがることもなく・・・。

この10年位は当日は大抵忘れています(^_^;)
2~3日経ってから、あれ?・・・。
まあ覚えていても、去年も今年も連れ合いは病院なので、どうしようもありません。


どんど焼き

ウィキペディアによると、どんど焼きは小正月に行うとありますが、我が家のある地域では、大体1月の第2日曜日に近くの小学校の校庭で行われます。
地域の役員さんの都合でしょう。

今日がその第2日曜日だったので、お飾りを持って行ってきました。
地図をみて高校と並んでいることが解り、そうだったのかと思った次第です(^_^;)
いつも通っている場所に着きましたが、どこから入るのか解らなくてぐるっと回ればあるだろうと、校舎の周りを歩いていると臨時の入り口がありました。

子どもが大きくなってからここに引っ越してきたので、小学校中学校とも無縁で、横をいつも車で走っているのですが、小学校がどこにあるか解りませんでした。
地域のことは、今まで夫にすべてまかせていたのです。

それに自宅から一番近かった小学校が、少子化の影響で数年前廃校になってしまいました。
校庭には準備がしてありましたが、火をつけるのは1時からだということで、お飾りだけ渡して帰ってきました。



とうとう

風邪を引いてしまいました。

夫が倒れてから気力で突っ走ってきましたが、疲れが取れないお年頃で
どんどんたまる一方の疲れ・・・。
朝起きると喉が痛くて背中が寒い頭痛も少々・・・しまった(T_T)

先週は4回も病院まで走ったので、2日間行っていません。
洗濯物を届けてまた持って帰らなきゃ。

病院へ行くとシーツ交換をしているのに、ベッドの横にいる夫。
また38度3分の熱が出ているとのことです。

風邪をうつしてはいけないので、取りあえず洗濯物を置いてさっさと帰ってきました。

医療費と保険

成人の日ですね。昭和人間は成人の日は「1月15日」と思い込んでいるところがあり、頭の切り替えが出来ないでいます。
ハッピーマンデー制度で1月の第2月曜日になってもう14年にもなるのに・・・。
昔覚えたことはそのままで、上書き保存されない頭です。

タイトルの医療費と保険ですが、昨年の7月に70歳になった夫の入院費は8月から安くなると喜んでいましたが、意に反しちっとも安くなりません。

1か月自宅に居た時の、外来の医療費は安くなってホッとしましたが、入院費は今までとほとんど変わりません。
今まで健保協会で「高額医療費限度額申請書」という書類を貰って提出すれば、支払額は80,000円までですんでいました。
夫の保健は退職後2年間、任意で協会健保に加入しています。

緊急搬送で緊急手術した時、手術から10日ほどしてICUの事務の男性が「○○さん入院手続きされていますか?」言ってきました。
術後たくさんの書類にサインをしたのですが、入院申込書を書いた記憶がありませんでした。
何分本人に意識がなく、この時点で保険証も提出していなかったのです。
手続きに事務センターに行くと「エライ金額になっています、健保協会で高額医療費限度額申請書を貰ってきてください」と三宮の健保協会のあるビルの地図を渡されました。

昨年10月の入院は11日で53,000円、11月は約74000円でした。
12月分はこの15日に請求書がきます。おそらく11月分と大差ないと思います。

医療費は1割負担ですが、入院基本料が44,000円に食費、パジャマ代は年齢に関係なく同一料金ですので、支払金額は変わりません。

それでも日本の医療費は、国民皆保険のお蔭で安いのですね。
夫は3度も救急車に乗りましたが、ありがたいことに無料です。
タクシー代わりに救急車を利用する人もありますが、急を要する人、動けない人のためのものと心得たいものです。

娘がアメリカに住んでいた時、体調を崩し深夜救急車で病院に行ったことがあったのです。
その時、救急車の代金を請求されなくてラッキー!と思っていたら、婿さんが病院に着いてすぐ支払っていたことが後で解りました。正確な金額は忘れましたが、10,000円とか15,000円だったとかで、アメリカでは急病になれないと思ったと話していました。


最近、医療保険のCMが盛んに流れていますが、夫は生命保険やがん保険には入っていますが、何の根拠もなく「自分は健康だ!!」と信じていましたから、入院医療保険には入っていませんでした。

2011年の10月からこれまで、360日以上の入院をしていますが、びた一文保険金は出ません。
そうは言っても還付申告で、ある程度は戻ってきます。

皆さんは医療保険に入っていますか?

私は少額ですが入っています。
夫のように長期入院ではありませんが、あるのとないのとでは気持ちが違います。
59歳で早期退職をした時点で、保険の見直しをすべきだったと反省することしきりです。


ケセラセラ何とかなるさ入院費    タンポポ


医師との面談

夫が命がけのオペを決意しました。

家に帰ってきて声をあげて泣きました。
少し落ち着いたところで、私の記録としてブログを綴っています。

昨日の朝、夫から「明日10時から主治医が話をしたいと言っている」と電話があったので行って来ました。
今週は4回目の病院です。

その電話で手術を受ける方向で話をしたいと言いました。
元々夫の意思に任せるつもりでしたので何も言えませんが、一日がかりのハイリスクの大手術です。

それでも自ら受けると決意した以上、私は付き合わねばなりません。

今日の話しでも、危険率は推し量りにくいとハッキリ言われました。10%~20%あるかも知れないとも聞きました。

先だっての内科医との話しでは、内科的な治療の限界がきているともきいていますので、手術しかないのも事実です。

11年10月の緊急手術では、胸骨を開いて人工血管置換をしましたが、今回は8月に受けた食道再生が、皮膚のすぐ下を通っているため胸を切ることが出来ません。
背中から左へぐるっと前まで切るそうです(T_T)

昨日、テレビの医療ドラマ医龍を見ていると、人工血管が出てきて思わず身を乗り出しました。

今回夫には、抗生剤を浸み込ませた人工血管を用いるそうです。

オペは2月7日、また辛い日が続きます。

iphone5の画像が

1月1日以降、PCに入らなくなっていました。
特に何かをした記憶がないのですが何度テストしても入りません。iphoneの画像はデジカメのように、メモリーカードやケーブルをつながなくても、同期していれば勝手に入るのですが、どうしたことか入らなくなってしまいました。

う~~ん(>_<)故障かな?

でもメールもネットもゲームも出来るし(使っているのはこの程度(^_^;))いいか・・・。

iphoneを持ってからは、コンデジを持ち歩かなくなったのでちょいと不便。
ということでappleのホームページからサポートの申し込みをしました。

そして今日午前中電話をしました。もちろん0120です(*^_^*)
40分以上あちらの指示に従ってPCとiphoneを触っていました。
途中でテスト撮影をして様子をみますが入りません。

とうとうアップルのサポートスペシャリストさんが出てきました。

最後はリモートサポート(あちらから私のPCを見る形)になり、あちらのポインターが赤く表示されました。
そのポインターが指す場所を、クリックして進んでいきます。
以前富士通でも同じサポートを受けたことがあります。

そしてとうとうiphoneの画像がPCに入ることが確認できました。
よかったヽ(^o^)丿
結局1時間ぐらいお付き合いいただきました。

サポートを受けるといつも思うのですが、親切丁寧に教えていただけます。
まあこちらは、おそらくサポートをして下さる方の親世代、或いはもっと上かも知れません。気長に付き合って下さるものです。
感謝感謝です<(_ _)>

一応PC歴は11年位になりますが、独学なのでスキルアップが出来ていません。
それでも十分に楽しめているので、良しとしましょう。


究極の選択を

今迫られています。

今日は病院へ総合内科の医師の話を、聞きに行ってきました。

夫の感染症の治療のためハイリスクの「人工血管再置換手術」をするか、このまま今効いている抗生剤バンコマイシンが、効かなくなって全身状態が悪化して死を迎えるか・・・。

耐性が進んできている抗生剤の効力が、今後どのくらい続くのか解りません。
1か月なのか3年ぐらいなのか・・・。

手術をするとどの位生きることが出来るのか、誰にも解らないのです。

「MRSAメシチリン耐性黄色ブドウ球菌」ほんとうに厄介な細菌です。

ハイリスクの手術をして何年も生きられなかったら、危険を冒して手術をする意味がありませんし、また術中の死亡もナイトは言い切れません。
でも手術をしなければ確実に死が近くなります。
手術をすることで、ほかの臓器に影響を及ぼす危険もあります。
夫の真意も測りかねますし、面と向かって訊く勇気もありません。

夫の決断に従うだけですが、どうすることが正しいのか?
究極の選択です。


手術を希望すれば、今月末か2月の頭には手術予定になります。




運転免許

私は50歳で運転免許を取得しました。

ペーパードライバーの夫を当てに出来ないのと、私自身、阪神大震災のあと脚を悪くしたからです。
これは元々先天性股関節症だったのですが、2歳の時ギブスを装着して、はた目にも自分にも不自由のない子供時代をおくりました。
普通に出産をして、子育てもごくごく自然にできました。

ちょっと変だなと思ったのは大震災の後、重い水を運んだのが堪えたようでした。
その後、50歳の春に手術をし、その年の夏から教習所に通いました。

50歳で免許を取ったと言うと、みなさん大変驚かれます。
まあ確かに取得までの道は険しかったです。

昨年の年末にリハビリに行っていて、柔道整復師の先生とこの話をしていると「すごいなぁ!車庫入れも出来るの?」と言われたのには、こちらの方がビックリしました。
「車庫入れが出来なくてはどこも行けないわよ!」

もっとも免許を取ってしばらくは、スーパーの駐車場は少なくとも3台分空いている場所を探しての車庫入れでした。
慣れるもので今は両サイドが空いていると、勘が狂ってうまく入りません。

教習所での実技試験は一発合格とはいきませんでしたが、学科試験は一発合格しましたし、免許センターでの試験も一発で合格しました。
親のお金で免許を取ろうとする若い子たちの中には、何度も挑戦する子たちがいました。
欲がないのだと思いました。お金にシビアなおばちゃんと、自分の懐が痛まない若い子の違いだと思ったものです。

後に免許を取ったことが、高齢の両親や夫に大いに役立ちました。
夫が入院している病院へは、高速に乗って30分ですが、電車だと3回の乗継で1時間以上かかります。
とてもじゃありませんが一日おきには行けません。

思い切って取得してよかったと思います。
小さな自損事故は何度かありますが、大きな事故も人身事故もなく15年過ぎました。

あと何年乗れるかは解りませんが、もう少し足として乗っていたいと思っています。


年明けから

一週間早い早い・・・。

昨日は夫の面会と、自分のメンテナンスに整形外科のリハビリに行ってきました。

何分にも、去年から280日以上も入院中の、夫の留守でほとほと疲れ切っている私。
共倒れだけは避けたいと思っています。

病院へ行かない日は、どっこも出かけたくないのが本音です。
でも今日もメンテだけは行こうといっています。

田舎の102歳と91歳の両親の顔を見に行きたいのですが、往復230キロの遠出は今の私にはちょっと無理です。

昨年の4月26日以来行っていません。
この頃、夫は外泊許可が出て時々外出&外泊をしていましたが、この日の夜、大量の吐血をしたのです。
両親と過ごしたのは約20年ですが、夫とは40年以上一緒です。
やはり夫の面倒をみなくては・・・。

私には姉が2人と兄が一人います。
兄は当てにはなりませんが、姉たちが行ってきて様子を知らせてくれます。
施設でお世話になっている高齢の両親は、人並み?に認知症がだんだん進んでいるので、行くことの出来ない私には都合がいい面もあります。

両親が高齢で健在と言うことは、私にも長生きの血が流れていると思うと、やはり怖いものがあります。

嵐が去った後の

静けさは時として涙が浮かんできたりします。

次女たちは、昨日関西空港を6時前に出発して、深夜3時半ごろに埼玉の家に到着したそうです。
大した渋滞もなく子供たちは眠ったので、休憩をちょっと省略して走ったようです。


昨日娘が帰った後、私のPCデスクに娘からの手紙があるのを、見つけました。
意気地のない私は泣き出してしまいそうで、すぐに読むことができませんでした。


     *****************


おかあさんへ

色々と大変なときにみんなで押しかけて、お疲れになったことでしょう。

午後からはゆっくり、また自分のペースで生活してください。
心配はつきませんが、これも人生・・・これも運命・・・。
少しでも穏やかに楽しく過ごせる時間がまた戻るといいね。

お母さんも自分のお身体大切に。
遠慮なくグチったり電話してもらってよいので、心身ともひとりで全部抱えこまないよーに!!
いつでもヘルプ発信してよいのだよ。


O家の滞在費?食費?お年玉?お小遣い?トイレの修理代?どんな名目でも受け取ってもらえないと思うので置いていきます。

お元気でね(^^)/

                   ○〇み


読んで号泣したのは言うまでもありません(^_^;)


手紙にあるトイレの修理とは、トイレのタンクに水が溜まるのに時間がかかって、私一人だと不自由はないのですが、大勢になると流れなくて困ったのです。
築20年のマンションですので、無理もありません。
ウオシュレットは何度か代えたのですが、本体とタンクは最初のままです。
今度来るまでには修理をしないと・・・。
どうせならトイレ全体の、リフォームをしたいと思っています。


娘からの手紙に嗚咽するひとり     タンポポ

お正月が終わって

また一人の生活が始まりました。

3日の11時ごろ夫を病院へ迎えに行くと、点滴がまだ終わっていなくて、しばらく待って帰宅しました。

帰りに我が家から近い甲子園素盛嗚神社へ、お参りに行きました。
ここは甲子園球場のすぐそばにあって、別名タイガース神社とも呼ばれている小さな神社です。
参拝客の多い大きな神社にお参りするには、病身の夫には厳しいので、近場で神様にお願いしてきました。

1日には娘や孫が西宮戎にお参りして、孫たちも「おじいちゃんが熱出ませんよう」「早く元気になりますよう」とそれぞれお願いしてくれたそうです。

今朝も8時半ごろ家を出て病院の玄関で降ろして帰ってきました。
今回の外泊は孫たちの動きを見るだけでも、疲れただろうと思います。

娘一家はお昼を食べて関空へ向かいました。
娘たちは車ですが、婿さんの妹さんがフランス人と結婚をしていて(東京在住)フランスからご両親が見えていたのです。

今日、帰国するにあたって、関空で落ち合うことになったのです。
皆で食事をしてその後、埼玉へ向けて走るそうです。




娘たちが来た時からマンションの我が家を、この家は暖かい暖かいとしきりに言っていましたが、一人になると急に寒くなってきました。

2日に一旦帰った長女たちも、昨日また来て夫の顔をみて帰りました。

ご挨拶

遅くなりました。

明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお付き合いいただきますようお願いいたします。

30日の夜から孫台風が、すさまじく吹いています。
昨年一年間のほとんどが、一人だった家が一気に7人と膨れ上がって、それはそれは賑やかです。


今パソコンに向かっているのは埼玉の娘一家が朝からユニバーサルスタジオに行っていて、長女とお年玉をgetした15歳の孫は、取りあえず一旦自宅に戻ったところです。
明日夫の外泊に合わせて、また来る予定のようです。

そこでやっと一人の時間になったところです。