FC2ブログ

赤ちゃん

2週間ぶりに孫を見に行ってきた。
2人目になると母親である娘にも余裕がある、さすがだと思った。自分でもそう言っている。
長男が産まれた時、抱っこしている姿をデジカメでムービーをとっていると、泣き出したわが子に、夫婦してどうしよう・・?と言っている声が入っているのがおかしくて何度も見ては笑ったものだФ
ぎこちない態勢で抱っこしていた婿さんも、今回は産まれてすぐ抱っこしている姿は板についていた。当たり前と言えば当たり前だが初心者お父さんのそれではなかった。
2歳半のお兄ちゃんも「あかちゃん、かわいい?と抱っこをしては頬ずりをしている。

  IMG_7492@.jpg

長男と比べると手ごたえが全然違うと言う。女の子はおっぱいの吸い方もやさしいらしい、IMG_7511.jpg
これは女の子しかそだてていない私には解らない。
寝る時も泣く時もどことなく女の子だなと思うそうだ。
長男の時は夏場だったせいもあるのだろうが、首も据わらないのに腰から下が今にも返りそうな勢いで、足をばたつかせていてビックリしたものだった。

新生児ってこんなにも小さかったのだね、と思うほど小さくてかわいいものだ。

ババ馬鹿でした・・・


ライフライン

震災関連はこれで終わりにします。

今の世の中で、食べ物と水を求めて東奔西走するなど考えてもいなかった、一被災者のひとりごと、最終章です。

電話の通じない日も5~6日あった。無事を知らせることも出来ずにいた。

レバーを押すとを勢いよくきれいな水が出る、ボタンを押せば青い炎のガスが出る、こんな当たり前の日常が一変した。

高架水槽が空になりピタリと止まってしまった水、歯磨きをする水もコップ一杯の水さえもない。
当日スーパーの開店時間に行くと、すでに大勢の人が開店を待って並んでいた。
店内も商品が棚から落ち、大変なことになっていたにも拘わらず定時に開店した。
どっと流れ込む人々でいっぱいになる広い店内。危険回避のため入場制限をされる。
店内から出てくる人の手には飲料水、ポリバケツ、ポリタンク、赤ちゃんのミルク等々。戦利品よろしく抱えている。
ここで、これらの物も必要ならば、持ち合わせが少ないと気付き、ATMへ行くが閉まっている、当然である。
店内に入れた時には飲料水もお茶もなかった。1ケース持っているお兄さんとすれ違いに「いいなぁ水欲しい・・・」言うと1本譲ってくれた礭助かった。その時点ではガスは出ていたので、火にかけると食べられるアルミの鍋に入ったうどんを買った。カップラーメンの類はなかった。
もうこれで安心と思えるほどの食料は買えなかった。バケツもポリタンクもなかった。
今主流のポスレジがまだ珍しい時、導入していた店ではレジが水に浸かり自慢のポスレジが使えず、手打ち&電卓でしのいでいた。ふとレジから店の外を見ると入店を待っている人たちの顔が引きつっているようだった。

水道についての第一報は、夕方には復旧の見通しとのことだったが、時間が経つにつれ見通しがつかなくなっていった。当日から近くの中学校の校庭に給水車が来ると言うことだったが、道路状況が悪く深夜に少しの水を手にすることが出来た。ポリタンクもきれいなバケツもなく、薬缶と鍋に貰ってきた。それからの4~5日、水と食料を求めてあちこち原付を走らせた。

そんな時、マンションの集会所の前の水道管が割れて水が出始めた。保健所の「飲料水にOK」のお墨付きで薬缶に鍋にバケツにと一日に何度も水を汲みに降りた。2~3日するとそこは立派な共同水汲み場になった。足元を固め掬っても砂が入らないよう、そしてそんな水汲み場からでも、水を手にすることが出来る安心感が住民の中にあった。
道路の向かい側の歩道からも水が出始めた。しかしこちらは飲料水にはならず、お手洗いや洗濯に使った。
数日後、マンション内に、管理組合が給水車の手配をした。
しかしどこに行っても手に入らない、新しいバケツとポリタンク、無性に欲しかった。
ゴミ袋を入れたバケツに水を入れ、口を結んで何度も往復した。重かった。
後にこれが引き金になり、脚を悪くしたのだった。こんな水汲みの生活が3週間続いた。

その内仕事も行くようになると、昼間に来る給水車の利用が出来なくなった。
自衛隊の船まで水を貰いに娘の運転で行くと、親切に実に丁寧に接してくれ、ポリタンクを4つ車に乗せてくれた。ありがたかった??

レバーを下げ水が出た時の、あの瞬間の感動と感謝、ありがたい、大切に使わねばと思った。
最近のレバー式蛇口は、上にあげると水が出るようになっている、これは震災の経験からこうしたのだと聞いた。
上から何か落ちてきても、蛇口から水が出っぱなしにならないようにとのことである。

ガスは当日の夕食にあるもので雑炊を炊いたのが最後、4週間止まったままであった。
その当時、我が家はカセットコンロを使っていなかった。まずはカセットコンロとボンベを買わねばとスーパーへ行く。
その店舗は2階部分が日用品売り場になっていたが、混乱を避けるためかどうか震災後しばらく客は上に上がれなかった。
階段の下の台に色々な物を置き「それ、これ!」という風に買っていた。そこに箱に入ってないコンロを見つけて「コンロとボンベ!」と言ったもののボンベは売り切れだった。とりあえずコンロだけ手に入れた。それから量販店に足を運んだがやはり売り切れていた。コンロは手に入れたもののボンベがないのが恨めしかった。
しばらく浅い電気鍋で食事の用意をしていた。
ある日、量販店でボンベが一人1個買えると聞き昼休みに買いに行った。ずるいと思いながらも2回並び2個買った。
計8本のボンベがやっと手に入った。

お風呂のこと食料のこと住まいのこと、本当に色々あった。
物に不自由をした覚えのない戦後生まれの私、パンさえ買えなくなる現実に、ただただ必死の毎日だった。

被災地(避難所)へ優先的に食料品を回すと言う決めごとがあるらしい中、自宅で非常時を乗り越える被災者には、おにぎりの1個も救援物資が届かない現実。
そして避難所によってはありあまるほどの救援物資が届くのも現実、現に全壊した義妹が避難していた小学校には、消費しきれない物資が届き、我が家におにぎりを持ってきた。

阪神大震災は冬でよかったと思う、これが夏であったならと思うとぞっとする。
ハイチのように気温が30度を超えるような時でなかったのは、不幸中の幸いだと思う。

震災から何日か経った時、A新聞で震災の川柳の特集を載せていた。その中に

被災地へ急ぐ背中の水の音  天根 夢草  という句があった。

忘れられない1句であり、後に私が川柳を教わる川柳作家の句であった。


震災余波・・・

震災は色んな形で傷跡を残した。
私と友人が16年ほど仲良くしていたHさんが、震災を機に離れていった。
3人とも上の子も下の子も同じ学年で、親同士何かと仲良くしていた。子どもたちが少し大きくなってからは何度か旅行にも行った。
抜けたのはHさんで、今も仲良くしているのはSさん。

Hさんが抜けたのはなるべくしてなったのだとは思う。
付き合っていくうちに?と思うことが増えて来ていた。約束の時間に現れないことは珍しくなかった。ケータイのない時代、30分はいつも待った。あまり遅いので家に電話をすると「今から出る」と悪びれることもなく言うことがあった。そのうち彼女との約束は30分早く伝えるようになった。常に遅れると待つ方より待たす方が慣れっこになった。「ごめん」と言っていたうちは良かったが、遅れて言い訳をするようになった。時間にもお金にもルーズだった。

震災の約4年前、我が家は今の住所に引っ越していたが、後の2人は割合近くに住んでいた。
Sさんの家は震災で全壊をした。全壊をして落ち込んでいるSさんに、デリカシーのない言葉を投げた。
Sさんは完全にHさんに対し心を閉じた。そんなことがあり駅前で出会っても、避けるようになったと聞いている。
一方私はSさんが家を再建するまでの、仮住まいを相談された。
当時マンションの管理会社に勤めていたので、社長とオーナーに頼み2棟持っていたマンションの一室を、借りる手配をした。こんなことがありSさんから信頼を得たのだろう。

あの未曾有の大震災で多数の家屋が倒壊し、直後から住まいを求める人が多く、震災から一週間後に住まいを捜し始めた時には、自力では見つけられないほど物件が不足していた。
現に管理人をしていたマンションも、57戸のうち震災前には14戸空き家があった。
しかし直後から入居の申し込みが殺到し、ガスも水も出ないマンションに「婿1人に、嫁6人」状態であった。
このマンション賃料が高く空き家が増えていたが、入居者が直後に「家賃が高いので下げてもらいたいと思っていたが、家族が皆無事でよかった。しっかりしたマンションに住んでいて助かった?」と言った。部屋から見えるアパートが2棟全壊したのを目の当たりにしての言葉だった。

元々3人はもめる元だったのかもしれない。ただ大人なので少しの心遣いで、上手く付き合うことは出来た筈なのにそれが出来なかった。

Sさんの家はその年の暮れに再建した、震災後、一度もHさんに会っていない。

   IMG_1379.jpg
 
  ↑《にわぜんきゅうギャラリーより》


振り返って

この大震災で、私の周囲では義妹の家と、2人の友人の家が全壊になった。
それぞれ一時よそへ避難していたがいち早く自宅を再建した。

我が家はと言うと築4年足らずのマンション、ローンをいっぱい抱えたマンションは無事であった。しかし前述の液状化現象のため、地の底から噴き出した細かい砂が駐輪場や通路に積もりドロドロであった。その量は倒れた自転車を埋めつくしていた。
これは後ほどたくさんのボランティアの手によって建物の下に戻された。しかし地面が沈んだため地面と建物の間に段差が出来てしまった。これは管理組合によってスロープを新設したり階段を増やしたりの処置がとられた。

室内の整理にもかなりの日数を要したのは言うまでもない。
倒壊した家からガスが漏れているため元栓を閉められるまで、我が家の辺りは当日の夜までガスは出ていた。今考えるとよく引火しなかったと思う。
落ち着いて新聞を読むことも出来ず、ただ余震に怯えながらテレビのニュースを見ていた。

電話も不通である、15年前ケータイはまだそれほど普及していなかった。
そして食料品が手に入らない。避難所には物資が届いても街に食料が売っていない・・・

1月22日NHKの特別番組「被災地からの声」を観ていると、普段なら感情を抑えているはずの古屋和雄アナウンサーがポロポロ涙を流しながら番組を進行していたのが、印象的で今も忘れられない。その後、古家アナウンサーは震災関連の本を出している。

3日目か4日目にチラッと見た新聞の犠牲者の住所の中に、一番の親友の家の辺りの住所を見つけた。
名前を見ると前の家のおばあさんらしい。ここで初めて親友の家の近所も、大きな被害を受けたことを知った。
急いで原付にのり、震災後初めて友人の家に向かう。
そこはみたこともない光景・・・道路はパックリとセンターラインで大きな口を開けている。しばらく走ると「ここから先は非常に危険である、もう少ししたら通行禁止になる。帰りは通れなくなる」と言われた。それを承知で友人宅へ向かう。ここを曲がると家だと思う所には崩れた家が道をふさいでいた。奥を見ると友人の家はある、建っている。崩れた家の上を通り辿り着き呼んでいると、お隣の窓が開き小学校の体育館に避難していると教えてくれた。
すぐ教えられた体育館へ向かう。
扉を開けると、新聞やニュースで見ている光景がそこにあった。名前を呼びながら体育館の中を歩いていると、顔なじみの方がいた。Kさんは舞台の前だと教えられて前の方まで進むと、声がした。
ヨカッタ!ヨカッタ!抱き合い互いの無事を喜んだ。
この友人は今も1月17日になると地震のあった時間に目覚めると言う、そして1日中フラッシュバックに怯えている。



あの日から・・・

15年経った、早いと思うか、まだ15年と思うか感じ方は色々だと思う。

阪神間に住みながら大した被害のなかった我が家、あえて昨日は書かないでおこうと思っていた。しかし考えてみると新聞やテレビで目にするのは激震地と言われる、もはや再生不可能かと思われるほど被災を受けた地域の目を覆うような被災の様子であり、それらの方が一時避難した避難所の様子や復興住宅での様子である。またたくましく復興を遂げた街の様子である。
それほどの被災は受けていなくても、日常生活に困難を極めた少しだけ被災した者の様子を綴っておこうと思う。

あの日、30分後には目覚ましが鳴りいつもと同じ日が始まるはずだった。それなのに目覚ましが鳴る前の5時46分に激しく突き上げられるようなものすごい揺れで目覚めた。怖い怖い!!と叫びながら頭から布団をかぶって揺れが治まるのを待った。長い長い時間だと思った。その間、夫が自分の蒲団をかけてくれたように思ったが、後でかけたのか偶然かは記憶にはないようだった。
揺れの最中「ワー」「ウオー」と夫の叫び声が聞こえたが見る余裕はなかった。
揺れが治まり第一声は「大きかったなぁ!」そして「箪笥が倒れてるんや」当然電気は点かない。薄暗い中で目を凝らすと和箪笥の上の部分が夫の蒲団の上に倒れている。
「○美は大丈夫か?」と言われ娘の部屋へ声をかけると「怖かったよ!」とおびえた声がする。無事だヨカッタ。
まだこの時点では未曾有の災害、地獄のような事態が起こっているとは知らなかった。この街は新しいまちでその当時は戸建て住宅がなくマンションだけの街であった。ゆえに瓦の落ちる音も家の倒れる音も聞こえなかった。
外を見ていた夫の「雪が降ったんやなあ」と言う声で、私もベランダに出て外を見る。??何だか変だ駐車場も通路も何だか白っぽいが雪ではない。マンホールが10センチぐらい飛び出している。この白く見えたのが液状化現象と言う初めて聞く言葉のせいであった。

30分ぐらいで電気は復旧した、いつものようにパンを焼き?を飲んで出勤した娘と夫だったが、徒歩5分の駅へ行くと線路の上に工場の煙突が倒れていて電車は不通になっていると娘だけ帰ってきた。夫は本線まで行けば大丈夫だろうと歩いて行ったと言う。
悲しいほどのサラリーマン根性である。

この日から水もガスもない生活が続くとは思いもしなかった。
水は3週間ガスは4週間止まったままだった。
JRも阪神も阪急も電車は不通になり地獄の通勤が待っていた。
阪神高速も新幹線の橋脚も倒壊したのだった。

  



震災記念日

珍しく今朝は早く目覚めた。時計を見ると5時40分、今日は震災記念日・・・
あの時の記憶が蘇ってきた。ベッドの上で身じろぎもせず耳をすませ、時の過ぎるのを待っていた。
震災のあった46分が過ぎた。何事もなく静かである。


↓の防災メールを受信した。

にしのみや防災ネットからお知らせが配信されました。

【タイトル】
にしのみや防災ネットからのお知らせです

【内容】
阪神・淡路大震災から16年が経過しました。大震災の記憶を風化させることなく、経験と教訓の継承を行うため、各ご家庭で避難場所や避難経路を話し合ったり、家具の転倒防止や備蓄品などを点検し災害に備えましょう。また、地域で実施される防災訓練などの行事に積極的に参加しましょう。

当地区の避難所に指定されていた小学校が廃校になって以来、現在避難所がどこなのか把握していなかった。ネットで調べると想定していた小学校であった。

決して忘れることのない出来事であったにもかかわらず防災意識が低いと反省・・・?

o0800060010450804179.jpg

  《地すべり資料館》
大規模な地滑りが発生し13戸が押しつぶされ、34名の命が失われた住宅地に建てられている。


お天気

今日はいいこれが昨日であったなら・・・

今日は娘の退院日、ならばと昨日もう一度病院へ行こうと少しあやしげな空模様を気にしながら出発した。
途中で雪がチラチラ舞いかけたが高速を走り続ける。1時間ぐらい走っただろうか、前が見えなないくらい降ってきた。目的地に近付くにつれ高速と言えども、山の中は一車線の対面通行になる、あの山道に雪が積もっていたら・・・?とても病院に到着出来るとは思えない。
色々考えた挙句、引き返すことを選んだ。またもやまったく知らないICで降り、ナビを自宅にセットして引き返した?

昨日はテレビの点検の予約をしていたのだが、朝電話がかかって来た時にキャンセルをし、でかけたのだった。今日の午後、改めて点検にくる。

来月親子で1ケ月検診があるのでそれまでにあちらへ伺おう。

しかししかし南の方角は私の鬼門かも知れない?

 おにいちゃん


baby誕生

朝6時半、まだ寝ている時ベッド脇の電話が鳴った。
次女の婿さんからである、深夜に陣痛が来て入院、スピード出産で女の子が生まれたとのことであった。
昨日の夜の話では、検診に行ったが陣痛を待つしかない、しかしその気配はないと言うことであった。2時過ぎに待ちに待った陣痛が来て3時半に入院したらしい。
ケータイに入院したとメールが入っていたのが4時2分、そして4時49分に出産。
何と陣痛開始から3時間経たないうちの軽い超スピード出産であった。
年末から本人も周りもジリジリと待っていたのが嘘のような、あっけなくあまりにもあっけない出産となった。
娘が言うには、ずっと便秘だったので入院後、出産にそなえてお手洗いに行ったところ破水をした。そして分娩室に行くと間もなくすっと産まれたのだと言う。

お手洗いで産み落とされなくてよかった。

とても軽い出産で娘も赤ちゃんも元気であった。ヨカッタ!これで落ち着ける。


っで帰り道・・・・
これは明日にでもå




不調・・・

私ではありません、昨年の10月に買ったテレビです。
亀山モデルに惹かれて買ったテレビです。
ここまで打って前日の夜、夫が急に「明日テレビを買いに行く」と言ったのを思い出してしまった。思いつきはやっぱり駄目です。

買って間もなくから、録画予約をしたのにブルーデイディスクに録画が出来てないことが何度もあった。
おとといY電気へ行ったので訊ねてみた。すると保証期間だしメーカーに連絡をした方がいいと言われた。そして昨日電話をかけた。サポートセンターのお姉さんの言うようにリモコンを操作して色々チェックをした。
っで今日はいけるかな?と3本予約したがすべて駄目だった。

そりゃねテレビも何だか機能が複雑でリモコンのボタンも多い。複雑になればなるほど故障もし易いことは解る。でもねぇ何だか納得出来ない。来週、修理に来てもらう予定ではあるけど
買って直ぐから調子の悪いテレビと、この先何年も付き合うのは急に嫌になった。

結婚して40年電化製品もすべて何回か買い換えたが今回のようなのは初めてだ?ä? どうしてくれよう。


病院での挨拶

リハビリに通っている整形は昨日から開いている。
午前中はさぞかし混雑しているだろうと敬遠をし、午後の早い時間に行った。意外にも空いていてビックリした。
玄関の近くにはいつものように送迎車のドライバーのおじさんが数人いる。
ギプスをしていた1カ月間は、この送迎車のお世話になったのでどのおじさんとも顔なじみである。
一応「明けましておめでとうございます」まで言ってから・・・う~~ん。
まだお世話になるだろうが「今年もよろしく・・・」あまり言いたくないな・・・

リハビリ室ではおめでとうも言わずにいた。
病院での新年の挨拶はなんて言えばよかったのだろう?

「去年はお世話になりました、今年は早く卒業したいと思います」とでも言えば良かったのだろうか?
後から来る人を見ているとやはり、今年もよろしくお願いします・・・・?
何だかねぇ、

±早く卒業しよう


2010年

   IMG_7438.jpg

画像は阪神甲子園球場そばの、別名タイガース神社と呼ばれる、素盞鳴(すさのお)神社に掲げられた大きなタイガース絵馬です。


新年おめでとうございます。
本年も皆様にとって素敵な一年であることを願います。
そしてこのつたないブログ共々お付き合いよろしくお願い致します。

今日はもう普段の休日のような我が家です、娘は昨日早々と帰りました。
この冬休みは新型インフルエンザの影響で休みが短縮され、大方のサラリーマンと同じ4日から三学期が始まります。正月気分から抜け出せるのでしょうかね。

父のこと娘のこと落ち着かないままで新年が明けました。
どっちつかずで足止め状態です。
お腹のこももう十分な大きさになっているとのこと、早く産まれてきてほしいものです。

  


ミスった!

昨夜11時ごろリビングのソファーにかけて編み物をしていた。
編み物から目を離し、何気なく顔をあげた時、視界に入ってきたのは、箱に入ったままの鏡餅。

年末の割合早い時期に買っていた。買ってすぐ飾るにはまだ早いと思いそのまま棚の上に置いていてすっかり忘れていた。形だけと思い買った小さな鏡餅、夫も娘も孫も気付かなかったのか、だれも何も言わなかった。
テレビを買い換えたので置く場所がなくなったが、そこは形だけの小さい鏡餅である。
テレビの脇に飾ってみた。肩身がせまそうな存在感のない哀れな小さな鏡餅。

しかしこんなミスは40年の主婦業の中で初めてである。
ただ単にボーとしていたのか、父のことや、お産をジリジリとして待っている所為なのか・・・

やっぱり単なるぼんやりかも・・・・危ない危ない。
認知症の両親のことを笑ってはいられない。

新年早々大失敗である。気を引き締めねば・・・?

  IMG_7449.jpg