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食器

ジジババ2人の暮らしになって、早や16年。
4人で暮らしていた時は、それなりに揃っていた食器が
気付けば2人なら足りるが、盆正月一気に人数が増えると
小皿以外、数が揃わなくなっている。
当たり前だが食器は割れ物・・・。

元々食器類は少ない方だったと思う。
それでも4人の時は不自由はなかった。
しかし今、食器棚の中を見渡すと、どれもこれも
2~3枚のお皿や器ばかり。
お客様と言えるお方は、来られないが、娘たちが来ると
たちまち食器が足らない。みんなばらばらの食器を
使うことになる。

ネットを見ていて気にいったマグカップをポチしたのは
もう2年ぐらい前かも・・・。それがこれ

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毎日使う食器なのに買っていない。

でも食器って「ヨシ!今日は食器を買うぞ」と勢い込んで行っても
なかなか気に入るものに出会えない。
何となくぶらっと売り場を見ていて「これいい!」と思うことが多い。
もう30年ぐらい前に、時々行くスーパーで見つけたのがこれ

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最初に買ったのはコーヒーカップだったか、お皿だったか定かではないが
惚れこんで、ずっと愛用している。当時としては少々高かったが、我が家が
買ったものだからそんなに高級な物ではない。

どちらかと言うとお皿の方が気に入っていて、毎朝使っている。
これも3枚しかなく、新しいのに買い替えるかどうしようか。
でもこんなに気に入ったものが見つかるとも思えない。
30年も前なら無くて当たり前・・・。MIKASAの食器。

どこかへ見に行くにしても、ちょっと下調べをと思ってネットを眺めていた。
高級なブランドの食器に、手抜き料理は似合わない。
ましてやそんな高級な食器には手が出ない。
っでみていると何と同じものがあるではないか
おお!!嬉しい もちろんポチしましたとも。
これで手持ちのお皿を処分しなくてもいいし、数が揃うし万々歳\(^o^)/
それに何と言っても、楽天のポイントが2000点あまりあったので使わない手はない。
送料はかかるけど、そこは目をつむることにして、満足なのでした。

友とのランチ

約2か月振りに、友人とランチ&お喋りの約束をしていた。
待ち合わせはいつものショッピングモールで11時半。
余裕を持って出たのに  ことごとく信号に引っかかる。
運の悪い時ってこうなんだよね。

駐車場へ入って時計を確認すると、11時30分。
「着いたよ。4階のエレヴェーターの横にいるからね」とLINEが入った。
すぐ合流。大体いつも和食のお店に入る。注文して喋る喋る。
普段から毎日のように、LINEで話しているのに次々喋ることがある。
食べ終えてお店の外を見ると、大勢待っている。
会計を終えて、通路の椅子に掛けてなおも喋り続ける。
                                                  
                                                         長時間喋ってお茶にした。もちろん甘いものを食べましたとも
ここでもだいぶ喋ってお開きになった。

11時半入庫、精算機に駐車券を入れたのは、4時だったか。
2軒のお店で二人分付いているのに、精算機に表示された
金額をみてひええ~~なぬ1,200円!
駐車料金を払いたくない私には、ショックな金額。
お店のレジで付いてないのでは?と思った。
ショッピングモールのカードがあるので、それをいれて600円。
まあね長時間喋って、飲み食いをしただけで他に買い物していないので
そんなものかも・・・。

いつもは映画とランチなので、映画館で3時間分が付く.
久し振りに駐車料金を払って、何か損をした気になってしまった。
女って何とよく喋る生き物なんでしょう

④3人の友へ最終章

半年ほどの後、S治は千葉へ転勤になった。
遠距離恋愛をするまでの関係にはならなかった。
「落ち着いたら手紙書くわ・・・」それがS治の最後の言葉だった。
2ヶ月経ったころ、約束通り手紙が来たが、ワクワクもドキドキもしなかった。
それから何通かの手紙のやりとりのあと、どちらからともなく自然消滅した。
もともとそんな関係だったのだ。



そして20数年後、同窓会でS治の訃報を聞いた。
家族のある身で、飛び降り自殺をしたのだと聞いた。

私とS治が少しの間、付き合っていたことを知っていた同級生は何人かいた。
デートをしている時、同級生にバッタリ出会ったことがある。
S治の訃報を教えてくれたのも、その一人でS治の家の隣のAちゃんだった。
ショック受けないでね・・・と前置きをして話してくれた。ショックはショックではあったが、
すでに過去の人であり、K子の時のようなショックはなかった。

そして私が出した数通の手紙を、ずっと持っていて、実家の兄さんが私に返して
欲しいと、奥さんから預かっていたと・・・。
テニス部の先輩だったお姉さんが、今更そんなもの返しても、迷惑なだけだから
処分しようということになり、処分したと聞いた。
私はとっくに処分したのに・・・。なぜそんな手紙を、いつまでも持っていたのだろう?

偶々処分し忘れていたのだと思うが、好きだとかLOVEだとか、ただの一度も
書いた覚えがないし。書いてあった記憶もない。
奥さんが読んだかどうかは判らないが、亡くなった夫の青春時代の
他愛のない一ページにしか感じなかったと思う。



私にとって、比較的深い繋がりのあった3人の友が、自らの命を絶った。
3人とも両親より早く逝ってしまった。

K子の場合、余命宣告されていたのかも知れない。
それでも自ら16歳の命を、絶ってしまうという行為は、両親にどれだけの苦しみを
与えたか計り知れない。 ましてやお父さんは警察官だったのだ。

emiyとS冶だってそうだ。
残された家族にどれほどの悲しみや、苦痛を与えたことだろう。。
死者に鞭打つつもりはないが、生きる希望を失ったとしても、家族のことを
考えて踏みとどまって欲しかった。
何とか生きる希望を、見いだして欲しかったと思う。

3人の亡き友③初恋のS治

大阪でのOL時代、寮の夕食が終わって仲間と買い物に出た。
そして帰りにケーキを食べようと喫茶店に入った。


ケーキセットが運ばれて来て、口を付けた。
何となく視線を感じ、感じた方に目をやった。
アッ!・・・ビックリした拍子に持っていたフォークが、カチャと音を立てた。
何とそこに初恋のS治が、オッスとばかりに片手を挙げて、笑っているではないか。
「ええ!!なんでここにいるの?この近くに住んでるの?・・・etc.」
一方的に喋ったと思う。
S治は仕事で近くに来て、帰りに高校時代の友達を、待っているところだった。

これが初恋?と意識したのは、小学校5年生だった。
社会科の時間、グループで世界地図から国を探す授業があった。
たしか5人グループだった。
その中にS治がいた。Y彦もいた。
その時間が楽しくて、待ち遠しかった。
Y彦とS治二人の、漫才のような話し方が楽しかった。
そんなグループ学習も長くは続かなかった。

そして中学に入り、S治はあまり身体は大きくなかったが、野球部に入った。
私はテニス部。下手なりにラケットを振っていた。
テニスコートから見える野球部の練習風景、これに惹かれたのかも・・・。

そして高校に入るまでは何事もなかった。そう私の片思いだった。
「好きな子はいる?」仲良くなったS子が言った。
「いるよ、でも片思いやねん・・・」そんなたわいない話しをするのも、誰にでもある
青春時代の一コマだろう。

当時の淡路島には、電車が走っていたので電車通学だった。
同じ駅から乗るので、付かず離れずの位置をキープ、それで十分だった。

ある日S子は「電話かけようよ。かけてあげるわ。」と言う。
「嫌や~そんなん止めて・・・」

50年ほど前の田舎で、固定電話のある家は、ごく少数だった。
たいていの家は、農協の有線電話だった。
S治の家は商売をしていたので、固定電話があった。
知らない間に、S子は電話をかけていた。
そしてある日、S治からまさかの電話がかかってきたのだった。
「○さんから聞いて・・・。ビックリした]
「ゴメン、嫌や言うたのに・・・気にせんといて」
「IさんはY彦を好きだと思とった、Y彦もIさんを好きだと言うとった・・・」
「ええ~~・・・!」
50年も前のことで、他には何を話したのか覚えていない。

ここでデートの約束も何もなかったのが、純朴さゆえだったのか。
否それ以上に、関心がなかったということだろう。

そして前述の喫茶店での再会の後、S治と初めてデートをした。
ケータイのない時代、連絡は手紙か互いの寮への電話しかなかった。
梅田の阪急百貨店で待ち合わせ、大阪城へ行った。
月に2回ぐらいのデート。今のようにUSJも阿倍野ハルカスもなかった。
心斎橋を歩いたり、映画をみたり、公園をぶらぶらしたり、歌声喫茶に行ったり・・・。

クリスマスプレゼントを交換をした。S冶からはぬいぐるみ、私はネクタイを贈った。
年末の帰省を、往復一緒の船に乗ろうという話になった。
当時明石海峡大橋は、まだ夢の架け橋だった。
淡路島へ渡るには、船かフェリーしかなかった。

待ち合せは元町駅の改札口。私が早く着いた。
中突堤まで、私のお土産を持ってくれた。
船の乗り場に行くと、帰省客で混雑をしていた。
大勢の人の中から、S冶の名前を呼ぶ声が聞こえた。
おそらく同時に振り向いたのだろう。
声の主の方へ歩み寄る2人。同級生のHとNだ。
他にも何人かの同級生の顔が見える。
淡路弁で「お前ら付きおうとるんか?」
「偶に会って喫茶店に行ったりしとる・・・」
「アホ、それを付きおうとる言うんじゃ」
「・・・」



3人の亡き友②emiyへ

河川敷で大きな炎が上がっている。その燃えさかる炎の中に、友人のemiyがいる。
私は「emiy何してるの、死んでしまうよ、やめて!!」と叫んでいるのに声が出ていない。
必死で叫ぼうとするのに声が出ない。
炎の中でemiyは、一瞬微笑んでそして手を振った。


ぐっしょり汗をかいて飛び起きた。
夢の中では声が出ていなかったのに、実際は叫んでいたようで
夫もビックリして飛び起きた。


その場面を実際に見ていないが、もう何年も前、自宅の庭で灯油をかぶり
emiyは焼身自殺をした。

最後に電話があったのは、いつだったのだろう。
電話をかけて来るには、いつもよりちょっと早い時間だった。
しかし話しの内容に不自然を感じなかった。
声のトーンもいつもと同じで疑う余地はなかった。
否、私が鈍かったのかも知れない。
本当は何か聞いて欲しかったのだと思う。

emiyと最初に出会ったのは、中学の2年生だった。
合併した町に中学が2校あった。
そして同姓同名の女子生徒が、互いの中学校の同学年にいた。
合同体育祭の時、emiyがやってきて「○島○ちゃんてどの子?
うちの○ちゃんが会いたいねん」と言ってきたのだった。

高校へ進学すると、emiyも同じ高校で同じクラスになった。
いつのまにか仲良くなった。

女に産まれたことを嫌がっていた高校時代、当然家庭科は大の苦手。
黒縁の大きな眼鏡をかけ、男っぽい歩き方、話し方や笑い方、声までも男っぽく
男の方が似合ってるとみんなが思っていた。

数学と化学が得意だった。
解けない問題を教えてもらうと、左手でメガネをちょっと上げ、サラサラサラと
大きな字で問題を解いた。
綺麗な大きな目が、悪戯っぽく笑っていた。

そんな彼女が22歳で、普通に結婚し一男一女をもうけた。
これにはみんながびっくりした。

私が実家に帰省しているとき、長女を抱っこしてemiyがやってきた。
いいお母さんぶりを発揮していた。



彼女が何故、焼身自殺という思い切った手段を、選んだのか
未だにわからない。
何がemiyをそんなに追い詰めていたのだろう。
一説には姑との確執があげられた。そして少し精神を病んでいたということを
人づてに聞いた。
だからこそ最後になった電話が、気になって仕方がないのだ。
話した内容は鮮明に覚えているのに、本当に話したかったことを
聞いてやれなかった。
emiyの最期を知ってから、何年も友達甲斐のない自分を責めている。

農家の嫁として、精一杯働き立派に子育てをしたemiy。
他に手段はなかったのだろうか?

気が向けば電話で色々話したね。
子どものこと、農業のこと、友人たちの近況。
最後の電話で話したことを覚えている?
その約束を果たさないで、逝ってしまったemiy。

今でも私は、何で?どうして?と問い続けているんだよ。





3人の亡き友①K子

K子は小学校の時、転校してきた。
田舎の転校生は珍しい。お父さんが駐在さんだった。
3人姉妹の長女で、末っ子の私からみれば、とてもしっかりしていた。
体育も勉強も良く出来た。

そのK子が、中学に入ってから、体調を崩し入院をした。
退院後も「これから病院に行くねん」と言って薬を飲んでいるのを
見かけることがあった。。
「Kちゃん早く良くなって遊びに行こう」と励ました。
高校へ入ってからも、入退院を繰り返した。
学校の帰り見舞いに行くと「もう病院は嫌、早く学校に行きたい!!」
その時、部屋に入ってきたのがD君だった。
「そうだよなあ、病院は飽きたな」と言った。


高2になる春休み、散髪に行っていた父が手に新聞を握って帰って来た。
新聞を手渡しながら「K子ちゃん死んだぞ・・・」
「うそ!!」

父が指さす記事を見て、大きなショックを受けた。
大きな見出しで、K子とD君が横浜の外人墓地で心中した記事が載っていた。
春休みに入る前に、面会に行っていた私にはとても信じられなかった。
それから間もなく、他の友達から「Kちゃんのこと聞いた?」と電話がかかってきた。
後々判ってきたのは、私が面会に行った3日後、病院を抜け出したとのことだった。
何の力にもなれなかった無力さが悔しかった。

思春期の二人の心中、よからぬ噂が流れた、新聞の扱いも悪意のある物に見えた。
私には、それらの話は信じられなかった。
2人とも病気を苦にして、死を選んだに違いないと、50年経った今でも思っている。
病名は教えてもらわなかったが、生きる気力を奪ってしまうような、
質の悪い病気だったのだと思う。

おしゃべりとランチ

さて今日のお相手は、27年前、入院していた婦人科の病室で、
知り合った友人2人である。
自慢出来ることではないが、私は40歳50歳60歳と入院と
手術の経験がある。

この時の、私の病名は卵巣嚢腫、右卵巣が腫れて切除した。
大学病院の8人の大部屋だった。
婦人科病棟では、色んな病気で入院治療している人たちが
あった。中でも子宮癌の人が多かった。
今日ランチをした友人も1人は子宮癌だったが、27年経った
今も元気でいる。
そしてもう1人は、胞状奇胎で5ヶ月入院していた。
2人とも元気で久しぶりに会って、色々おしゃべりしランチを
した。
年齢は私が最年長
その当時、入院していた癌の治療をしていた人の多くは、逝ってしまった。
やはり癌は怖い病気である。
いったんよくなり仕事を再開したのに、20年後に亡くなった人もある。

入院時の思い出や亡くなった方の思い出、当時の医師や看護師等、
話し出したら止まらない。そりゃそうだ女3人だもの

夫に限ったことではないと思うが、500日も入退院を繰り返しても、誰一人として
親しくなった方はいない。
どの方もだいたいカーテンを閉めて、自分の世界にこもっている。
プライドなのか何なのか、ほとんど話しをすることもない。

そこへいくと女性はオープンで何かと話しかけ、溶け込もうと努力する。
起きている間、誰彼なく喋っている。
住所や電話番号メルアドの交換をするのだ。
だからこうして、20年以上も前に知り合った人と、付き合うことが出来る。


久々にあってそれぞれによく喋り、ランチを食べてまた喋って、仕上げにお茶を
しながらまたまた喋って・・・。
喋りっぱなしの5時間で楽しかった

自慢の友人

神戸の地元で歌手活動をしている友人から、コンサートの案内はがきが届いた。
彼女と知り合って10年ぐらいになるだろうか。

私が最初にブログを持っていた時だったと思う。
ある方のブログに彼女を取り上げていて、ユーチューブで音声を聴いて感動した。
高音のとてもきれいな、澄んだ歌声が流れてきた。
”千の風になって”だった。

その感動をブログに書いた。すると本人からの書き込みがあってびっくりした。
私も時々するが、自分の名前を検索して、私のブログにたどり着いたのだった。

それから何度かコンサートに行ったり、食事を一緒にしたりたまには電話で
喋ったりするようになった。
この3年半は行くことが出来ないでいるが、毎年案内状をいただいている。

私がそうであったように、この歌声に癒やされる方は多いと思う。

今後もその素敵な声で癒やして下さい。
ちょっと遠いのでいけそうもありませんが、ご活躍をお祈りしています陽代さん。


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懐かしい再会

1970年大阪万博の開催の年、結婚した私達夫婦が最初に住んだのは神戸市灘区。
六甲ケーブル駅の下の方、神戸大学のグランドのそばだった。
国家公務員だった夫は、当時出向で出ていた。その出向先の公団の宿舎での新生活のスタートだった。
夫26歳私21歳・・・今考えると何も知らずによく結婚したものだと思う
新しく出来た宿舎で、18戸のほとんどが新婚組だった。
第一子第二子とも大体同じ年頃の子どもが出来、子育て環境はとてもよかった。
我が家は、出向から役所に戻った76年の春まで住んでいた。
公団の解体と共に、今は宿舎のあった場所にはマンションが建っている。

今日は当時そこで暮らした仲間5人が、十数年ぶりに集まった。
場所はANAクラウンプラザホテル神戸の34階にある日本料理「神戸なだ万」。
予約はしていたが、5人では窓際の席が取れなかった。
それでも見晴らしがよく、青々とした六甲山が目の前にあり、非常に満足の食事会だった。
食べるのも喋るのも忙しい、マシンガントークで時間の過ぎるのが早かった。

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お料理を写す習慣がないとつい撮り忘れた。
1枚目と2枚目の間の料理の写真も、デザートの写真もパス
里芋ご飯が素朴で美味しかった。

ランチのあともあっちで喋りこっちで忙しい。

良く食べてよく喋った一日だった。
いい息抜きになった。

みんな65歳以上の年金生活者、前回集まった時とは話題が違う。
健康のこと、子供、孫のこと、お墓や遺骨をどうするか・・・。
1970年代には、こんな話をする時が来るとは思わなかったね~。
また来年も席を設けようと言いながら、つるべ落としの夕暮の神戸から帰って来た。

友人の活躍

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川柳関係以外で、友人と呼べる人はそう多くはない私の、大切な友人はプロの歌手です。
シンガーソングライターの彼女は、メジャーではありませんが、地元神戸を中心に、こつこつと努力をしています。
数年前「千の風になって」が流行りました。その時彼女も歌っていて、その澄んだ歌声に感動しました。
それをその当時持っていた、掲示板だったかブログだったかに書いたのでした。
私も自分の本名を時々検索しますが、彼女も検索エンジンから飛んできて、コメントを残してくれました。
それからのお付き合いです。
何度かコンサートに行きました。神戸で一緒にお茶をして長い時間喋ったこともあります。

コンサートの案内を毎回いただいていますが、夫の病気以来、行けないのが現実です。
そろそろあの癒しの歌声を、生で聴きたいなと思います。








↓は私の大好きな曲「泣いてもいいんだよ」です。

emiyとMさん

高校へ入学し同じクラスになり仲良くなった。どことなく目に付き、校則違反は平気、悪く言えばちょっと避けられるタイプだった。でもなぜか気が合った。互いの家に遊びに行ったり、一緒に出かけたりした。

1年の体育際の時クラスのみんなで作った応援用の○○?(名前を忘れた)も出来上がった体育祭の前日のHRで「Mさんを体育祭に出さないように校長からと言われた」と担任が苦渋に満ちた顔で話した。
Mさんは身体障害者だった。頭はみんなと同じぐらいの大きさで身長がとても低く手脚もとても短かった。昔のこと廊下の拭き掃除などするとショーツが丸見えになった。おしゃれ心も恥じらいもある年頃、誰かがいったのかMさんは廊下の拭き掃除はいいことになった。
そのMさんを出すなと言った校長に激怒したクラス全員で直談判に行った。
今なら教育の現場で教育者たる者が、こんな発言をするなど考えられないが、50年近い前のことである。
それでも言って良いことと悪いことは今も昔も変わらない。

グランドにいた校長に真っ先に詰め寄ったのはemiyだった。のらりくらりと言い校舎の中に逃げた校長のスーツの上着を泣きながら踏みつけた。みんなで作った応援用のボード?も壊した。
担任が話したHRの時、帰されたのかMさんはいなかった。翌日Mさんを迎えに行くことにして、その役はemiyと私になった。

翌日学校へ行くとMさんは何事もなかったような顔をして登校していた。
私たちのクラスだけボードのない運動会だった。

実はこの話しは30年位前にA新聞の投書欄で「運動会の想い出」を募集していた時、応募し掲載されたことがある。

私はは身障者になって15年、そう辛いこともイヤなこともなく過ごせている。
そんなことを考えると、福祉と云う言葉さえもあまり聞かなかった時代、Mさんはさぞかしイヤな思い辛い思いを経験したのだろうと察するにあまりある。

emiyは音楽と家庭科以外はいつ勉強しているのか不思議な程よく出来ていた。

結婚する時「おっさんがひつこいから嫁に行ったるわ」って笑っていたね。

貴女から最後に℡があったのはいつ頃だったのだろうと、一生懸命思いだそうとするのにハッキリしない。話した内容は鮮明に覚えているのに・・・。

ショッキングな最期はあまりにも悲しいけれど、逆に考えればemiyらしいような気もしてきました。



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テスト

前のブログの下書きから・・・。

ってコピペにすると字が滅茶苦茶大きくなるんだね。

年賀状の季節になるとある友人のことを思い出す。

気になりながら、もう何年も年賀状が途絶えていた友人がある。

普段からあまり連絡もしないのだが、時々どちらからともなく「声が聞きたくなった」と電話で話していた。

元々きっちり年賀状をくれる方ではなかったので、あまり気にしていなかったのだが、4年前に年賀状を書く時、もしや?と胸騒ぎがした。

年が明けてから田舎にいる友人に聞くと、前に病気だと聞いたことがあると言う。
やっぱり・・・っで今は?と気になっていた。


4年前、両親の面会に一行った日、帰りに彼女の家のある地域まで行ってみた。

家は知らなかったので、また予感が当たっていると怖いので、先に何方かにお聞きしようと見渡してみた。

目に付いた和菓子屋さんで聞くことにした。

名前と私と同級生であること、小柄であることなどを話すと返ってきた言葉は・・・・・。
予想だにしないことだった。
血圧が高いと聞いたことがあるので、倒れて文字を書ける状態ではないのかも、あるいは・・・と色々いい予想はしていなかった。

おばさんの口をついて出たのは焼身自殺、何ともショッキングであった
もう何年も前に自宅の庭で、灯油をかぶって自殺をしたのだと言うことだった
こんなことを嘘を言う筈もないが、信じられない思いと、まさかの幕切れに泣いてしまった。
何があったのかは今となっては知ることも出来ない。
とてもそんなことをする人ではなかった。
おばさんによると姑との関係で少し精神的に病んでいたと言う。

女に産まれたことを嫌がっていた高校時代、黒縁の大きな眼鏡をかけ男っぽい歩き方、話し方や笑い方、声までも男っぽく男の方が似合ってるとみんなが思っていた。

今思えば「ダブルハッピネス」の著者の杉山文野くんみたいだった。

頭が良く数学や化学は良く出来た。

教えて貰うと左手でメガネをちょっと上げ、サラサラサラと大きな字で問題を解いた。

大きな綺麗な目が悪戯っぽく笑っていた。家庭科の被服の提出物は私が縫っていた。

一年の時の女性担任に恋をしていた。

そんな彼女が22歳で普通に結婚してみんなをアッと言わせ、一男一女の母親になった。これにもみんなビックリしたものだ。

どんなに辛い苦しいことがあったのだろう、自殺をするしか術はなかったのだろうか?


昨日まで貴女のことを確認しなかったことを悔やんで私の心は乱れています。
emiy貴女はやっと気付いたのかと笑っているのでしょうか?


            

今日は癒しの日(*^_^*)

先月生まれた友人の孫ちゃんを見せてもらいに行って来た。
ママのAちゃんとは何年振りだっただろう。
〇結ちゃんかわいい~????新生児をまじかで見たのはT以来だから3年ぶり。

やっぱり赤ちゃんをみていると自然に笑みがこぼれる。
笑みだけじゃなく感激で涙まででてきた?
だっこをすると、まだ見えない目でじっと声のする方を見る。
本当に癒される。

写真を撮りたかったが、iphoneのフラッシュが光るといけないので遠慮した。


友人の家に行くとき、毎年行くコスモス畑が見ごろを迎えているようで、対岸を走っていても
一面華やかなピンクに染まっているのが解った。
帰りによってみようと思い行って来た。
今年も駐車場が用意され、大勢の人が見に行っていた。
デイサービスの車で来ている、お年寄りも多かった。


地元のボランティアの方のお蔭で、毎年一面に咲くコスモスをこんなに近場で、楽しませていただいていることに感謝・・・<(_ _)>


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このところ悶々と日々を過ごしていたので、いい息抜きになった。
明日は夫の今後の治療についての話しを聞きに行く。

娘も義妹もaozora@も、夫はあまり長生きは出来ないだろうと思っている。

今の夫に、自分の残りの命をどう思っているのかは訊き難い。
いつかは訊かなければならない日が来る・・・でもそのいつかは、もっともっと先であって欲しい。


現実的な次女は「大事なことはちゃんと聞いておかないとダメだよ」という。


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遅まきながら

お花見に行って来た。
場所はここ残念ながら桜はほとんど散っていた。

この家に越して来る前は、この競馬場の近くに住んでいた。
中に入ったのは、引っ越して以来初めてだった。
一番の友達は今もこの近くに住んでいるので、平日一度行こうと言いながら中々実現せず、今日になってしまった。
aozora@が近くにいたころと違って、場内はきれいに整備されちびっこの格好の遊び場になっている。

今も昔も近辺の幼稚園や小学低学年の遠足場所となっている。

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去年の夏、次女が帰ってきている時、aozora@用があって行かなかったが、ジイチャンと娘たちは遊びに行った。
遊具もあり、水遊びも出来無料で何時間でも遊べる。

aozora@が住んでいたころは夏に「宝塚祭り」が競馬場で行われていた。
吹奏楽やバトンをしていた娘たちの発表の場でもあった。

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《ハナカイドウ》桜はほぼ終わっていたが、大きなハナカイドウの木があった。

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別の場所で《八重桜》

近所で御衣黄も咲いている。


電話

昨日、映画を観る前に夫の快気祝いを準備しようと、早めに出ようとしていました。
そこへ友人から電話がありました。

官舎時代の友人Hさんです。ご主人がホスピスへ入っていると聞いていました。
今年は年賀状が届いてなかったので、もしやとは思っていたのです。

1カ月前にお亡くなりになったとのことでした。
癌の告知を受けて6年病と闘いましたが力尽きて・・・。72歳だったそうです。
「淋しいよ・・・40年以上の夫婦の歴史は簡単には忘れられない、もとは他人とはいえ忘れることはないと思う・・・」

短い時間でしたが色々話しました。
12月から実家のお母さんが、ずっと一緒にいていろいろ手伝ってくれていると言います。
その92歳のお母さんが「自分より20歳も若い娘婿が亡くなって申し訳ない」と言うそうです。
そういうお母さんの気持ちが解らないではありませんが、聞いていて泣けてきました。

夫の病気のことを知っている彼女は、今回の入院後も無事に退院して順調に回復しているというと、とても喜んでくれました。

彼女と同じ官舎にいたのは3年ぐらいですが、ずっとお付き合いがあります。
昨日の電話で「あなたの声が聞きたくて・・・」と言ってくれました。
どんな美声かと思いますよね(^_^;)

絵を描かれる方で、春の展覧会の案内状をいただけるそうです。
その時お会いしようと、今から楽しみにしています。


コンサート

明日は友人である、シンガーソングライターの安田陽代さんの コンサートが、神戸の「舞子ビラ あじさいホール」であります。
楽しみにしていましたが、今回は「ごめんなさいメール」でお断りしました。

直ぐに彼女から電話があって、久しぶりに話しました。
彼女にもこの2カ月の間、大変なことが起きていました。

大勢の人の前に出る身分なので、身の安全のためにその詳細をここには書けません。
信号待ちでの交通事故です。

せめてもの救いは、彼女に大きな怪我がなかったことです。

明日のコンサートも人々に癒しを与え、ほんわか気分になれること請け合いです。

  
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うれしいなあ(^◇^)

先ほど、友人がお花を持って訪ねてくれた。

1ヵ月ほど前ブティックを覗いていたら、友人の好きな色目のチュニックがあったので、プレゼントに買った。
もちろん高価な物ではない。映画の約束をした日に渡すと、その場で喜んでくれた。
そして次に会った時着て来た。地味な色だが好きな色でよく似会っていた
「好きな色だし着易くて重宝してるよ」と喜んでくれた。
それで良かったのにお花を持ってきてくれた。

いつもで連れていってもらうそのお礼でもあると言ったが、遠出の時は気を遣ってガソリン代を渡してくれる。
友人と言える人はそう多くはないaozora@のかけがえのない親友である。
去年の春以来行ってないが、泊まりがけで旅行の出来る友人である。海外も2回行った。
20年位、春と秋の2回旅行に行っている。

夫が「サンデー毎日」になり、食生活が軌道にのったらまた行こうと話している。

誕生日が1ヵ月しか違わず、子どもの年齢が同じ、家庭環境も似ているからこそ友人だと思う。
お互いの伴侶より気持ちの通じるこの友人とは、ずっとずっといい付き合いをしていきたいと思っている。

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アレンジフラワーみたいだけど、寄せ植えが出来るようにと鉢のまま入っている。
お花をいじらないaozora@は夫の帰るのを待ちます


素敵な友人

プロのシンガーソングライターで、クラシカル童謡歌手、

神戸市垂水区在住の「安田陽代さん」です。
 
  
   


  
  

やっとリンクが貼れるるようになりました?

でも一旦セキュリティを下げないと、別窓が開きません。で元に戻すのを忘れるaozora@です?


ブログはこちら





ユーチューブ

up出来たので調子にのって、オリジナル曲をもう1曲?



ピアノの中北利夫氏は子どもの頃から、眠れないお母さんのためにピアノを弾いていたとのことで、優しい弾き方をする、幅広い音楽活動をしている。


NさんのPC

今からPCを始める友人Nさんが、PCを買うのについて行った。Nさんの自宅に近い家電量販店J電気に行った。

aozora@が富士通を使っているからと、彼女も富士通のノートPC「2011年夏モデル」を買った。
先日行ったY電気には春モデルでお手頃のがあったが、今日行ったJ電気は、春モデルは展示品のみしかなかった。
プリンタも店舗のお薦めはEだったが、同じCを買った。
デジカメも買おうとしたが在庫がなく、また次回買うことにした。

パソコン教室の申し込みをした時、先生から「紙バッグには入れてこないで、PC専用のカバンを買って下さい」と言われたので、それも買った。

レジへ行くとPCは3万円も安くなった?応対をしてくれたおじさんがとても親切で、彼女のマンションが導入しているプロバイダーにで色々訊いてくれた。

ネットは後日の接続になるが、一応PCを開けてワードの練習を出来るようにしてきた。
慣れないと、なかなかマウスの使い方が難しそうであった。

ガンバレ!!Nさん?


意気込み

 川柳仲間のNさん(74歳)が、これからPCを始めると言って、予定通り昨日aozora@のPCを触りに来た。PCに触れたのは初めてでネットの便利さPCの素晴らしさに、大層感激して貰えた。

 彼女はケータイは数年前から持っていたが、e?を始めたのは1カ月半ほど前である。その練習台をaozora@がしている。
メールを初めてPCに目覚めたいうところだろう。彼女曰く「今の時代PCを一生触ることなく人生を終えるのは心残り、どの程度会得できるかは解からないが、物にはのってみなければ・・・」と嬉しいことを言う。
PC教室にも通いたいと前向きである。70歳を超えてからのNさんの意気込みが嬉しい。
aozora@の年齢でも周囲にPCを楽しんでいる人は少ない。

 今週の土曜日、川柳の後で早速購入したいと言うので一緒に行くことになった。
プリンタを置く場所を用意しているとメールが来た?
彼女に、PCで何をしたいか聞いてみると、取り敢えずはネットとワープロだと言う。
ワープロを打てるようになって、川柳講座の会報の作成を交代したい、と嬉しいことを言う。

 aozora@もまた交代をしないとと気にはなっているが、何分にも高齢の両親のある身である。いつ何があるか解からないので、口に出せずにいたので嬉しい。
来年の今頃はSさんからNさんに代わっていますように・・・?



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シンガーソングライター

「千の風になって」が流行っていたころ、ある方のブログで神戸市在住の「クラシカル童謡歌手・安田陽代」さんを知った。プロの歌手である。
彼女の歌う「千の風になって」を聴いてファンになり応援をしている。

面識のなかった頃、前に持っていたブログに彼女のことを書いた。
自分の名前を検索してブログに辿り着いた彼女がコメントを残してくれた。

  

オリジナル曲「泣いてもいいんだよ」は心にしみる大好きな曲である。
2年前の1月、かなりショックな出来事があり、一日中この曲を聴いて引きこもっていた。
手首の骨折をしたのもこの頃だった。踏んだり蹴ったりの中で、もがきながらこの曲を繰り返し繰り返し聴いていた。
”悲しい時は泣いてもいいんだよ”とやさしく語りかける歌声が唯一の慰めだった。

私がウツウツしても咲く桜     K

彼女自身命の危険にさらされる大病をし、それからの歌手活動である。ご主人と2人のお子さんを持つ普通のお母さんでもある。コンサートにはご主人がいつもやさしく見守っている。

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これからも魂の歌声を歌い続けて欲しいと願っている。

4月28日「読売ファミリー後援、大阪太閤園コンサート」頑張って下さい。

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不幸続き

先ほど友人からメールが来た。
昨年11月と12月に兄さんと姉さんを亡くしたこの友人にまたしても不幸があった。
今度は11月に亡くなった兄さんの奥さんが自宅の階段から落ちて亡くなったと・・・
兄さんが亡くなった後一人暮らしだった姉さんは変死扱いで警察の事情聴取、聞き込み、検死、御遺体引き取りと大変だったようだ。

ここまで続くと「私悪いことしてないつもりだけど・・・・」と?
今晩お通夜、明日告別式、明後日、実の姉さんの49日の法要と息つく間もない。
友人の体調が心配である。

長寿の家系のaozora@は直近の葬儀は30年以上なく、ただただビックリしている。

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う~~ん(&amp;gt&#59;_&amp;lt&#59;)

6日に倒れた友人のお姉さんが、昨日の午後亡くなったとメールが来た。
8日の時点で24時間と医者から言われていたそうであるが、素人目にも状態が悪くなっていくのが解るとメールにあった。意識がないとはいえ本人も苦しく辛かっただろうが、そばで見ている身内はどんなに辛い5日間だっただろう。
それにしても40日の間に兄さんと姉さんを続けて亡くした友人になんと声をかければいいのだろう。普段のように絵文字を使ったのは打てないが、それでもメールはまだいい。次に会った時何と声をかけたらいいものか・・・

15年間この時期「加藤登紀子ほろ酔いコンサート」に行くのに今年はチケットを買っていなかった。買っていたら昨日と今日がコンサートだった。
こんな事態を想定したわけではなかったが、いつもと同じようにチケットを買っていたら回避出来たのだろうか?などと一人考えているaozora@である。


友人の悲しみ

一番の友人は先月長兄を亡くした。このお兄さんは2年ほど前にスーパー銭湯の洗い場で倒れ、入退院を繰り返していた。だいぶ良くなってきたと、嬉しそうに話していた翌日、急変し亡くなったのだった。
痰が絡んだことによる窒息死だった。ナースコールに手が届いていれば亡くなることは、なかったのではないかと思うと残念でならない。
ナースコールも手が届かなければ何もならない。

そして昨夜この友人から「私もうボロボロ・・・」とメールが入った。
お姉さんが昨日クモ膜下出血で倒れ意識不明のたいへん危険な状態だと言う。
昨日は先月亡くなったお兄さんの命日であり、お父さんの祥月命日でもある。
何と言うことだろう。
彼女は4年生の時にお母さんを亡くし、年の離れた兄さんや姉さんに大事に育てられたと聞いている。
このメールを見て不信心のaozora@でも意識が戻るように神様にお願いした。
これしか出来ない。
今朝はまだ連絡がない。どうか助かって欲しい。

このお姉さんの御主人は舌癌で舌を失っている。どこかの肉を持ってきて舌の再生はしているが、筋肉を取っているため話せない。会話は筆談である。そばにお姉さんがいないと生活に大きな支障をきたす。
辛いけど気をしっかり持って、姉さんの回復を見守って欲しい。



友人の悲しみととまどいと・・・

一番の友人の目の病名が「角膜ジストロフイ」であると、大学病院の医師から昨日告げられた。
遺伝性の病気で彼女の場合は、角膜の移植あるのみだと言う、そしてその角膜はアメリカから輸入するのだという。
日本にはドナーが少ないゆえに輸入と言うことだと思う。しかも手術には保健がきくが角膜と輸入の費用は100%患者の負担である。その金額は40万円・・・

昨日病院で会うことになっていて、お茶を飲みながら話を聞いた。彼女は今見えているので、移植という恐ろしいことを云われてもすぐには踏ん切りがつかないと言った。
その時はそんなに取り乱している風ではなかった。
帰り御主人のデリカシーのない一言で傷ついた。
今日は朝から喧嘩して泣いて怒って目を腫らしているとe?があった。

その返事が書けないでいる。友人の悲しみはaozora@も悲しい。
この友人とは互いの家族よりも気持ちが通じていると、2人とも思っていいる。

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  今日のこの抜けるような青空が恨めしかった。


震災余波・・・

震災は色んな形で傷跡を残した。
私と友人が16年ほど仲良くしていたHさんが、震災を機に離れていった。
3人とも上の子も下の子も同じ学年で、親同士何かと仲良くしていた。子どもたちが少し大きくなってからは何度か旅行にも行った。
抜けたのはHさんで、今も仲良くしているのはSさん。

Hさんが抜けたのはなるべくしてなったのだとは思う。
付き合っていくうちに?と思うことが増えて来ていた。約束の時間に現れないことは珍しくなかった。ケータイのない時代、30分はいつも待った。あまり遅いので家に電話をすると「今から出る」と悪びれることもなく言うことがあった。そのうち彼女との約束は30分早く伝えるようになった。常に遅れると待つ方より待たす方が慣れっこになった。「ごめん」と言っていたうちは良かったが、遅れて言い訳をするようになった。時間にもお金にもルーズだった。

震災の約4年前、我が家は今の住所に引っ越していたが、後の2人は割合近くに住んでいた。
Sさんの家は震災で全壊をした。全壊をして落ち込んでいるSさんに、デリカシーのない言葉を投げた。
Sさんは完全にHさんに対し心を閉じた。そんなことがあり駅前で出会っても、避けるようになったと聞いている。
一方私はSさんが家を再建するまでの、仮住まいを相談された。
当時マンションの管理会社に勤めていたので、社長とオーナーに頼み2棟持っていたマンションの一室を、借りる手配をした。こんなことがありSさんから信頼を得たのだろう。

あの未曾有の大震災で多数の家屋が倒壊し、直後から住まいを求める人が多く、震災から一週間後に住まいを捜し始めた時には、自力では見つけられないほど物件が不足していた。
現に管理人をしていたマンションも、57戸のうち震災前には14戸空き家があった。
しかし直後から入居の申し込みが殺到し、ガスも水も出ないマンションに「婿1人に、嫁6人」状態であった。
このマンション賃料が高く空き家が増えていたが、入居者が直後に「家賃が高いので下げてもらいたいと思っていたが、家族が皆無事でよかった。しっかりしたマンションに住んでいて助かった?」と言った。部屋から見えるアパートが2棟全壊したのを目の当たりにしての言葉だった。

元々3人はもめる元だったのかもしれない。ただ大人なので少しの心遣いで、上手く付き合うことは出来た筈なのにそれが出来なかった。

Sさんの家はその年の暮れに再建した、震災後、一度もHさんに会っていない。

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  ↑《にわぜんきゅうギャラリーより》


その日のまえに

映画のタイトル(永作博美主演)みたいだが、昨日友人と話したこと。
兄さんと姉さんを続けて亡くした友人から珍しくがあった。ご主人がリタイアしてからは連絡はメールばかりだったのだが、昨日は久しぶりに電話がかかって来た。精神的にも肉体的にもかなりのダメージを受けている彼女は電話口で泣いた。
これはおそらく私のように高齢ながらも両親が健在で、4人姉兄の誰もが欠けることなく暮らしている者には計りしれない悲しみだと思う。

色々喋った。なかでも「その日のため」にお金をきちんとしておかねばと言う話になった。
葬儀の費用は直ぐ支払わねばならない。亡くなる前日、もう助からないと覚悟を決めた彼女は、自分しか言えないと思い、甥にお金を用意しておくように伝えたと言う。
お姉さんのところでは息子さんも、ご主人も印鑑と通帳の置いてある場所がわからなかったので大変だったと聞いた。何分にも筆談に頼るしかないご主人は表には出にくい。
元気でいるとカードで出せるが、亡くなったらそうはいかなくなる。

この友人は数年前に、ご主人の兄さんと姑さんを亡くし、その時の教訓から自分たち夫婦のお金は彼女名義と、ご主人名義に分けたと言う。そして嫁いだ娘にそれらの在りかを教えてあると聞いている。

夫の実家でも姑が亡くなった後、わずかばかりのお金ではあったが出せなかった。姑と跡を継いでいる兄とは実の親子ではないため、実子である3人の兄妹の印鑑証明が要った。
それまで何となく聞いていたが、今回彼女と話したことで「その日の前に」我が家もそれなりのことをしておかねばと思った。

もっとも99歳と88歳の両親より先には逝けない我々姉妹ではある。