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あれから25年

早いもので阪神.淡路大震災から25年経った。
忘れられない出来事である。
しかし近年次々起きる自然災害、人の力ではどうにも出来ない。
未曾有の大震災と言われた震災のことは、これまで阪神淡路大震災で
何度か書いてきた。

阪神高速道路からバスが半分落ちかけている映像を、殆どの方が
見ていると思いますが、現場は自宅から近いところで良く通る場所です。

管理人のおばちゃんとして窓口業務をしていたマンション辺りも、
被害が酷かった。
このマンション当時としてはオートロックで家賃が高く、空き部屋が多かった。
ところが震災で外壁のタイルが十枚ほど落ちただけだったので、
続々と入居希望者が窓口にやって来た。
娘一人に婿八人、そんな感じだった。
ここもガスも水道も止ったままで、空き部屋があっと言う間に全室、
契約が出来た。
頭に包帯を巻いた男性が何とか入れて欲しい。家賃はいくらでも払います・・・。
オーナーの自宅も倒壊し、自宅再建までここに住んでいた。
当時の阪神タイガースの監督だったF氏も入居し、一選手との問題で
新聞社や週刊誌の記者がよく出入りした。

私はこの震災で重い水を運んだ影響で、それまでどうも無かった
股関節を悪くし、後に人工関節置き換え術を受けた。

今日は一日中25年前のこの時間は、何をしていたのか?と
考えながら過ごしている。

少々寒いが何事もなく迎えられたことに安心している。
阪神淡路大震災は冬で良かったと思う。


あれから24年

阪神淡路大震災から24年経った。
今思い出しても怖い、時間だった。
そして信じられない光景を目にした。


今朝何か気配を感じて飛び起きたのが、午前5時45分。
ベッドの上で身構えていた。46分、47分長い時間に思えた。
何事もなく過ぎた。

朝食を済ませ洗濯機を回す。きれいな水がジャーと出る幸せに感謝。
ガスが4週間水道が3週間止まっていた24年前。
この今の普通のことがありがたい。

今まで何度かここに記しているので、リンクを貼っておきます。
興味のある方はどうぞ。

震災記念日。  あの日から。    振り返って。  震災余波。  ライフライン。
17年経ちました。  1月17日。  19年。  1月17日。  思い出すままに。  
1.17。    1.17 23回目。  続1.17。

続1・17

昨日書き忘れたことを少し補足。
水もガスもない生活は、この時まで予想もしていなかった。
そんな中で水道管の裂け目から水が溢れ、臨時の水くみ場になった。
反対側の通路では、下水管からも溢れトイレ用にバケツに汲んでもって上がった。

震災から4日目ぐらいだったか、新聞を見ていると大勢の死亡者の住所があった。
その中に、親友の家の近所の住所があり、初めて親友の家の辺りも大きな被害を
受けていたことを知った。
すぐさま原付に乗って親友の家に駆け付けた。道路から家が建っているのは見える。
しかし家に続く道には、潰れた家がせりだし近づけない。
少し先に行ってみると、がれきの上に畳を敷いて歩けるようにしてあった。
そこを歩き友の家の玄関前で、Kさ~んと何度か叫んでいると、右隣の方が
「Kさんは小学校の体育館に避難していますよ」と教えてくれた。
元々この地に住んでいて、我が家の子供たちも通った小学校である。土地勘はある。
体育館に着きドアを開けると、この何日かテレビで見ていた避難所の光景が広がっていた。
Kさんいませんか?と叫びながら歩いていると、私を呼ぶ声が聞こえる。
振り向くと次女の同級生のお母さんだった。
「Kさんは舞台の上よ!」と教えてくれた。
舞台へ近づくと居た!Kさんと呼びここまで気を張って来てよかった。
再会と無事を喜び抱き合って泣いた。

この未曽有の大震災の後も、日本列島は大震災に見舞われている。
そのたび避難所の風景を見ると、あの時のことを繰り返し思い出している。

1・17

阪神大震災から今日で23年である。
やはり今年も、地震のあった時刻に目覚めた。
どうしても夫婦の話題は、あの日のことになる。

時計を見ながらこの時間はどんなことをしていたか、思い出してしまう。
我が家は阪神間にありながらも、ごくごく小さな被害で済んだ。

一瞬で停電し、水が出なくなり、夜にはガスも出なくなった。
電気は約30分で復旧したものの、水は3週間、ガスは4週間止まっていた。

ATMも開いていない。
スーパーには、いつもなら有り余るほどある食料品も品薄で買えない。

電車はJR、阪急、阪神とも動かない。
国家公務員だった夫は、当日電車通勤をあきらめて自転車で出直したが、
阪神高速道路の倒壊現場を見て、眩暈をおこし帰って来た。
翌日から魔の自転車通勤をした。建物の倒壊現場を避け、迂回して西へ西へと
ペダルを漕いだ。

有事の際こそ出勤せねばならぬ立場の公務員、17日に欠勤したことを
退職の日まで悔やんでいた。
職場まで何キロあったかわからないが、かなりの距離であることは間違いない。
よく頑張って行ったと思う。当時51歳まだ若くて元気だった。

徐々に復興し4週間後、ガスが出てお風呂を沸かせた日の喜び温かさを
何度も何度も浴槽に手を入れて娘と喜んだ。

私は水が出ないこの期間、重い水を運んで股関節を悪くし、
のちに両脚の股関節を人工関節置換術を受けた。

過去記事の1月17日はもう少し詳細に、震災関連を書いてあります。
興味のある方はどうぞ・・・。

被災地へ急ぐ背中の水の音  天根 夢草

1・17

阪神淡路大震災から二十一年経った。
今日は、神戸市を始め当市でも1・17の集いがあった。
毎年この日を迎えるにあたって、忘れかけた記憶の欠片を拾い集め
思い出すようにしている。

ドンと突き上げられた瞬間から、水が3週間一滴の水も出なくなった。
そしてガスはこの日の夜から、4週間出なかった。
電気は1時間ほどで復旧をした。
レバーを下げれば溢れんばかりに水が出て、スイッチ一つでお風呂が沸く生活が一変した。
水が出ないなら、スーパーで買ってこなければとスーパーへ行くと
開店時間が過ぎているのに、まだ開いていない。
開店を待っている人の長い列。
程なくして開店したが、入場制限をしていた。
待つ間、出てくる人をみると、大型のバケツなどを買って出てくる人が多い。
こういう物を買わなきゃいけないなら、手持ちの現金では足りないと思い、
2階のATMに行ったが、閉まっていた。
この時点ではまだ、未曾有の大震災が、起きているとは思わなかった。

私が店内に入った時には、すでに棚には一本の水も並んでなかった。
ワンケース抱えているお兄さんに「いいなぁ」と言うと、1本分けてくれた。

この日から水を探し、なんとかガスボンベとコンロを手に入れるべく
原付で走り回った。
ガスボンベとコンロが手に入るまでは電器鍋とポットがフル活躍した。

毎日食べるパンもなかった。これは避難所などへ優先的に送るという
取り決めがあったのだそうで、なかなか市場には十分な量が出回らなかった。

スーパーでは、お総菜ができあがると取り合いになった。
水がないので、手っ取り早いお総菜に群がったのだ。
ポスレジが使えず手打ちをしていた。

娘が休みの日、近くに自衛隊の給水船が来ているとの情報があり、
浜までもらいに行った。
水の入ったタンクを4つ、積んでくれたのには有り難くて涙が出た。
これでご飯が炊けると思うと本当に嬉しかった。

電車も、JR・阪急・阪神ともに一瞬にして動かなくなり、現役だった夫は
自転車で神戸まで通勤し、娘は関西空港まで行き、船で通勤した。
電話も通じなかった。まだケータイが今のように普及しておらず、
我が家の様子を、実家に知らせることが出来なかった。

まだまだ限りなく思い出すことがあるが、ここにアップするのはこのぐらいにしておこう。
過去記事の1月の項には、それなりに残してある。

被災地へ急ぐ背中の水の音   夢草

思い出すままに・・・

@12015 01 18 001毎年1月17日は、この日の記憶がだんだん薄れていく中で、当時のことを思い出す日にしている。
テレビの映像を見るのはやはりつらい、でも忘れてはならない日であり、あの揺れのなかで感じた恐怖と、その後の今まで経験したことのなかった、毎日の不便な暮らしを少しずつ思い出している。

映像からは伝わってこないものもある。

この画像の戸建住宅が立ち並んでいるところは、当時広はい原っぱだった。ここには震災後、仮設住宅がずらっと建てられた。少し行ったところの運動公園の、テニスコートにも仮設住宅が建った。

奥の中央の高層マンションは、完成直前だった。

私の甥はあの頃、被害の大きかった神戸市東灘区の消防局にに勤めており、当日は宿直であった。
震災後は消火や救出活動に追われ数日間、自宅に戻ることが出来なかったと聞いている。
消火活動に水もなく川からの放水は困難を極め、大震災を前に、人間の無力さを味わった。
今は現場を離れ、本部の司令部にいる。

阪神高速路の倒壊で、国道43号線の通行量が増え、渋滞が酷かった。
ある日、43号線を原付で渡ろうと信号を待っていると、交差点の真ん中で交通整理をしていた警察官が、一斉に動き出した車を避けるため道路脇に慌ててやってきた。
「怖いでしょう、命がけやね・・・」と、声をかけずにいられなかった。
「今日で3日目、身の危険を感じる」と返事が返ってきた。

1月17日

阪神大震災から今日で20年になりました。
今日は大地震が起きた時刻の3分前に、目が覚めました。
時計を見ながら、どこか身構えていました。
これはこの20年変わりません。
今日は午前9時から防災訓練があり、外のスピーカーの呼びかけで、自宅で電気ガスを確認し、
ダイニングテーブルの下で身を護りました。
9時半には防災担当委員が、一軒ずつ無事を確認するというシュミレーション通りに終わりました。

先日来、新聞もテレビも20年20年と騒ぎ過ぎているように思う。
騒がなくとも被災地にとっては、決して忘れてはならないことであり、家族や大切な人が
犠牲になった方々、あるいは住まいを一瞬にして無くした人たちにとっては、忘れようにも
忘れられない日なのです。
私の二人の友人の家と、義妹の家が全壊しました。

市内は全壊、半壊以外は全て一部損壊でした。
我が家も一部損壊でした。

このブログに引っ越しをする前のブログは、あの日の出来事を思い出して綴っていました。
上手くこちらに引っ越せた記事と、消えてしまった記事があります。
右の月別アーカイブの1月の中から、残っている記事は見ていただけると思います。
11年のは消えているようです。

それとは別に震災後、当地で見たこと感じたこと、私が経験したことを
「1995年1月17日阪神淡路大震災の私と家族」と題して、当時使っていたワープロで
打ったものが数枚あります。


後に起こった東日本大震災の時は、整形外科で椅子にかけてホットパックをしていた。
遠く離れた地の地震をかすかにグラッと感じた。
この時は自分の体調が悪いのかと思うぐらいだった。


阪神大震災は、いつもの起床時間の30分ほど前だった。
突き上げられるような揺れと、夫のわぁ!という叫びで飛び起きた。
真っ暗な中、何が起こったのかと、考えていると、大きかったなぁ・・・と夫の声、続いて箪笥が倒れてる・・・。
目を凝らすと、和箪笥の上の部分が倒れていた。

当時、自宅通勤をしていた次女の無事を確認する。

ベランダに出て外を見た夫が、雪が降ってるなあと言う。
私も外に出て駐車場の方を見る。雪??
これはあとで解ったことだが、液状化と言う初めて聞く言葉と現象だった。

電気は30分後ぐらいに点いた。しかしこの日から3週間レバーを下げても、一滴の水も出なかった。
我が家は朝、テレビを付けない生活をずっとしていたので、情報のないまま買い置きの水で
コーヒーを沸かし、夫と次女は一緒に家を出ました。
しばらくして次女だけが帰って来て、駅の構内に工場の煙突が倒れていて、
電車が不通になっていると言う。
「お父さんは?」と訊くと甲子園まで行けば何とかなるだろうと、行ったとのことでした。
甲子園まで行ったものの、電車は阪神、阪急JRとも、不通になっていました。

戻ってきて自転車で出かけましたが、阪神高速道路の倒壊現場を見て、めまいがして
帰って来ました。
当時、国家公務員だった夫は当日出勤出来なかったことを、退職するまで悔やんでいました。
翌日からは自転車で出勤と言う、魔の通勤地獄でした。
倒壊した住宅やガス漏れで危険な場所を迂回しての、神戸三宮までの通勤でした。
疲労が激しく私の原付で2~3日通勤したのですが、慣れない原付で車道を走らねばならないのは、
自転車より疲れるとのことでまた自転車通勤になりました。


17日の夕食まではガスは出ていました。あるもので夕食を食べ洗い物をしようとして、
ガスが止まっていることに気づきました。この時から4週間ガスは使えませんでした。
折れたガス管に泥が入って、復旧が遅れていると聞きました。

取り敢えずは電気鍋が役に立ちましたが、カセットコンロとガスボンベを探し回り、
3日ほどしてやっと手に入れました。

スーパーから身近な食料品が消えたのです。もちろん水やパンもありません。
でも出先で食べる昼食もありません。夫も娘もお弁当持参でした。
お野菜がたくさん手に入った時は、調理してタッパーに入れ、皆さんに食べて
いただくよう夫に持たせました。
キャベツを一個ボイルして、サラダにしたのをとても喜んでいただきました。
娘は会社の一人暮らしの女性船員さんの、お弁当も持っていきました。

スーパーへ行けば、何でも揃うのが当たり前だったことが、そうではなくなったのです。
大阪へ行けば品物があり、普通に生活が出来ていましたので、大阪まで買い出しに行く人も
多かったのです。

そんな中で神戸市出身の○原慎○郎氏が、故郷神戸を心配して神戸入りをするという
連絡があり、役所では頭を抱えたのです。
宿泊も食事も十分でない神戸に、このタイミングで入る。
それは役所にとって非常に頭の痛いことです。
それでなくても仕事は山積み、職員も全員出勤できる状態ではないのです。
これはホテル側の協力や警察の協力があって、何とか無事にことなきを得たと記憶しています。

1月22日のNHKの特別放送「被災地からの声」を見ていると、普段なら感情を抑えて
ニュースを読む古屋和雄アナウンサーが、涙をポロポロ流しながら番組を進行していたのを、
今もはっきり覚えているのです。

この時入ったお風呂の一つに、プールの水を沸かしたカルキの臭いのするお風呂がありました。




阪神電車の運転再開は、梅田→甲子園(1月18日)
                梅田→青木 (1月26日)
                梅田→御影 (2月11日)
                全線開通  (6月26日) 予定より3カ月早く再開された

この間バスでの輸送があり、不便ながらも自転車通勤からは解放される。

               4月1日 JR東海道線開通
               6月12日 阪急神戸線開通

1月17日 19年経ちました

風邪は回復半ばです。

阪神淡路大震災から19年が経ちました。

私の親戚や友人は大きな被害を受けました。
でもたくましく生活を再建することができました。
東日本大震災と比べることは出来ませんが、やはり当事者にとっては忘れることの出来ない大震災です。


我が家も入居して4年目、多額のローンを抱えていた自宅で、ド~ンという大きな音と揺れで飛び起きました。

まず電気と水が使えなくなりました。
1時間ほどして電気は復旧して、買い置きの水でコーヒーを沸かし夫と次女は出勤しました。

ガスは当日、夕食の準備をするまで使えていました。
あの日の夕方、お水を求めて右往左往していると、当時大阪で一人暮らしをしていた長女が、自転車で帰ってきました。
電話が不通で連絡がつかないことが、不安で堪らなかったそうでした。
「もし自分だけが残ったらどうしよう・・・」と不安をいっぱい抱えて、車の間をぬって自転車での帰宅でした。
薬缶を下げて歩いているタンポポを見つけた長女の第一声が「あ~よかった、みなしごになったらどうしようと思った」
もう成人していたので「みなしご」はないでしょうけどね。
親を煩がって家を出ていたのですが、やはり一人になるのは恐れていたようです。

当時、次女は神戸で勤務していました。
バブルがはじけたころの卒業で、就職がなかなか決まらず仕方なく、夫のコネで船会社に就職し1年目でした。
あの日普段と変わらず家を出たのですが、最寄駅構内に隣の工場の煙突が倒れ、電車が不通になっていると
言って帰ってきました。
通勤手段がなく2日ほど家にいましたが、電話が復旧後、会社から関空経由で出勤してくるよう、
指示が出されました。
尼崎まで行って高速バスで関空へ行き、そこから船でポートアイランドの会社へと出勤していきました。
帰りは大阪の長女のところでお風呂に入ってきました。

自宅はガスが4週間・水道が3週間、止まったままでしたので、銭湯の情報を聞いては寒い中、
長時間待って入りに行きました。
でもせっかく入ったお風呂も、途中で水がなくなるトラブルがあったり、1回の入浴時間が制限されたり・・・。

公務員の夫は有事のときこそ出勤せねばならず、自転車や原付で三宮まで通勤でしたし、
帰りも遅く銭湯の空いている時間に帰ってこれず、平日は全く入浴出きませんでした。

この間、娘が休みの日、自衛隊の船まで水を貰いにいくと優しく言葉をかけていただき、
タンク5個も車に載せてくれました。

レバーを下げれば水もお湯も出る生活が一変し、どんなに水がありがたいものか、
この時初めて知ったのでした。
4週間たって自宅でお風呂を沸かせた時の嬉しさは、今も忘れられません。

食料品もそうです、お水がないと野菜を買っても洗うことが出来ません。
スーパーの惣菜が出てくるのを、調理場付近で待って取り合いでした。
被災地の避難所には、ありあまるほどの食料が回ってくると、ききましたが、
町から毎日食べるパンや牛乳が消えました。
これは被災地に優先して運ぶという取り決めがあるそうですが、自宅で暮らせていても食べ物が
手に入らないという事態に、お金があっても欲しいものが手に入らないという現実に、パンやガスボンベを
求めて原付で走り回りました。



倒れたマンション、パックリ横割れをして行く手を阻む道路、センターラインで割れた道路、
新幹線の橋脚が折れた現場、バスが半分落ちかけている阪神高速道路、どれも鮮明に覚えています。

                        
被災地へ急ぐ背中の水の音      天根 夢草

平成七年一月十七日裂ける      時実 新子 



あの頃生まれた子供たちも、もう大学生だったり受験生です。 
月日の経つのは早いなと改めて思います。
そして夫もあの時は若くて元気だった・・・。       





1月17日

あの日から18年・・・ここでブログを始めてから、毎年阪神大震災で経験したことを書いてきました。

あの日の夕方、お水を求めて右往左往していると、当時大阪で一人暮らしをしていた長女が、自転車で帰ってきました。
電話が不通で連絡がつかないことが、不安で堪らなかったそうでした。
「もし自分だけが残ったらどうしよう・・・」と不安をいっぱい抱えて、車の間をぬって自転車での帰宅でした。
薬缶を下げて歩いている私を見つけた長女の第一声が「あ~よかった、みなしごになったらどうしようと思った」
もう成人していたので「みなしご」はないでしょうけどね。
親を煩がって家を出ていたのですが、やはり一人になるのは恐れていたようです。

当時、次女は神戸で勤務していました。
バブルがはじけたころの卒業で、就職がなかなか決まらず仕方なく、夫のコネで船会社に就職し1年目でした。
あの日普段と変わらず家を出たのですが、最寄駅構内に隣の工場の煙突が倒れ、電車が不通になっていると言って帰ってきました。
通勤手段がなく4日ほど家にいましたが、電話が復旧後、会社から関空経由で出勤してくるよう、指示が出されました。
尼崎まで行って高速バスで関空へ行き、そこから船でポートアイランドの会社へと出勤していきました。帰りは大阪の長女のところでお風呂に入ってきました。

自宅はガスが4週間・水道が3週間、止まったままでしたので、銭湯の情報を聞いては寒い中、長時間待って入りに行きました。
でもせっかく入ったお風呂も、途中で水がなくなるトラブルがあったり、1回の入浴時間が制限されたり・・・。

公務員の夫は有事のときこそ出勤せねばならず、自転車や原付で三宮まで通勤でしたし、帰りも遅く銭湯の空いている時間に帰ってはこれず、平日は全く入浴出きませんでした。


レバーを下げれば水もお湯も出る生活が一変し、どんなに水がありがたいものか、この時初めて知ったのでした。
4週間たって自宅でお風呂を沸かせた時の嬉しさは、今も忘れられません。
娘と何度も手を浸けて、にやりとしたものです。

食料品もそうです、お水がないと野菜を買っても洗うことが出来ません。
スーパーの惣菜が出てくるのを、調理場付近で待って取り合いでした。

倒れたマンション、パックリ横割れをして行く手を阻む道路、センターラインで割れた道路、新幹線の橋脚が折れた現場、バスが半分落ちかけている阪神高速道路、どれもこれも忘れられない、忘れたはならない光景です。

                        合掌

被災地へ急ぐ背中の水の音      天根 夢草

平成七年一月十七日裂ける      時実 新子          



十八年取り残されている更地     タンポポ







17年経ちました

阪神大震災から早や17年です。
いつも聴いているラジオは、震災関連のメールFaxの受付をしていました。

朝食を摂りながら夫と話しました。
仮にあの時、マンションが倒れていたらどうしただろう?
多くの人がそうであったように、その後二重ローンを組んだのだろうか?

もしも、そうなっていたら今のようにのんびり暮らせなかっかも知れません。

今日は友人が冷静にいられない日なので「大丈夫?」とメールをしました。
「大丈夫じゃないよ、今日は一人でいるのは辛い」と返事が来ました。
「じゃあ歯医者が終わったら行くね」とメールしました。

歯医者さんの下のスーパーでお弁当とお茶菓子を買って、昨日届いたレンタルDVDを持って行きました。
友人の家に向かう途中に新幹線の高架橋があります、あの時その橋脚が折れたのでした。
それはそれは不気味な音だったと聞きました。

その高架の手前で上りの新幹線が走るのが、見えました。

そして帰りは、阪神高速3号神戸線の倒壊現場付近へ回って帰りました。

ライフライン

震災関連はこれで終わりにします。

今の世の中で、食べ物と水を求めて東奔西走するなど考えてもいなかった、一被災者のひとりごと、最終章です。

電話の通じない日も5~6日あった。無事を知らせることも出来ずにいた。

レバーを押すとを勢いよくきれいな水が出る、ボタンを押せば青い炎のガスが出る、こんな当たり前の日常が一変した。

高架水槽が空になりピタリと止まってしまった水、歯磨きをする水もコップ一杯の水さえもない。
当日スーパーの開店時間に行くと、すでに大勢の人が開店を待って並んでいた。
店内も商品が棚から落ち、大変なことになっていたにも拘わらず定時に開店した。
どっと流れ込む人々でいっぱいになる広い店内。危険回避のため入場制限をされる。
店内から出てくる人の手には飲料水、ポリバケツ、ポリタンク、赤ちゃんのミルク等々。戦利品よろしく抱えている。
ここで、これらの物も必要ならば、持ち合わせが少ないと気付き、ATMへ行くが閉まっている、当然である。
店内に入れた時には飲料水もお茶もなかった。1ケース持っているお兄さんとすれ違いに「いいなぁ水欲しい・・・」言うと1本譲ってくれた礭助かった。その時点ではガスは出ていたので、火にかけると食べられるアルミの鍋に入ったうどんを買った。カップラーメンの類はなかった。
もうこれで安心と思えるほどの食料は買えなかった。バケツもポリタンクもなかった。
今主流のポスレジがまだ珍しい時、導入していた店ではレジが水に浸かり自慢のポスレジが使えず、手打ち&電卓でしのいでいた。ふとレジから店の外を見ると入店を待っている人たちの顔が引きつっているようだった。

水道についての第一報は、夕方には復旧の見通しとのことだったが、時間が経つにつれ見通しがつかなくなっていった。当日から近くの中学校の校庭に給水車が来ると言うことだったが、道路状況が悪く深夜に少しの水を手にすることが出来た。ポリタンクもきれいなバケツもなく、薬缶と鍋に貰ってきた。それからの4~5日、水と食料を求めてあちこち原付を走らせた。

そんな時、マンションの集会所の前の水道管が割れて水が出始めた。保健所の「飲料水にOK」のお墨付きで薬缶に鍋にバケツにと一日に何度も水を汲みに降りた。2~3日するとそこは立派な共同水汲み場になった。足元を固め掬っても砂が入らないよう、そしてそんな水汲み場からでも、水を手にすることが出来る安心感が住民の中にあった。
道路の向かい側の歩道からも水が出始めた。しかしこちらは飲料水にはならず、お手洗いや洗濯に使った。
数日後、マンション内に、管理組合が給水車の手配をした。
しかしどこに行っても手に入らない、新しいバケツとポリタンク、無性に欲しかった。
ゴミ袋を入れたバケツに水を入れ、口を結んで何度も往復した。重かった。
後にこれが引き金になり、脚を悪くしたのだった。こんな水汲みの生活が3週間続いた。

その内仕事も行くようになると、昼間に来る給水車の利用が出来なくなった。
自衛隊の船まで水を貰いに娘の運転で行くと、親切に実に丁寧に接してくれ、ポリタンクを4つ車に乗せてくれた。ありがたかった??

レバーを下げ水が出た時の、あの瞬間の感動と感謝、ありがたい、大切に使わねばと思った。
最近のレバー式蛇口は、上にあげると水が出るようになっている、これは震災の経験からこうしたのだと聞いた。
上から何か落ちてきても、蛇口から水が出っぱなしにならないようにとのことである。

ガスは当日の夕食にあるもので雑炊を炊いたのが最後、4週間止まったままであった。
その当時、我が家はカセットコンロを使っていなかった。まずはカセットコンロとボンベを買わねばとスーパーへ行く。
その店舗は2階部分が日用品売り場になっていたが、混乱を避けるためかどうか震災後しばらく客は上に上がれなかった。
階段の下の台に色々な物を置き「それ、これ!」という風に買っていた。そこに箱に入ってないコンロを見つけて「コンロとボンベ!」と言ったもののボンベは売り切れだった。とりあえずコンロだけ手に入れた。それから量販店に足を運んだがやはり売り切れていた。コンロは手に入れたもののボンベがないのが恨めしかった。
しばらく浅い電気鍋で食事の用意をしていた。
ある日、量販店でボンベが一人1個買えると聞き昼休みに買いに行った。ずるいと思いながらも2回並び2個買った。
計8本のボンベがやっと手に入った。

お風呂のこと食料のこと住まいのこと、本当に色々あった。
物に不自由をした覚えのない戦後生まれの私、パンさえ買えなくなる現実に、ただただ必死の毎日だった。

被災地(避難所)へ優先的に食料品を回すと言う決めごとがあるらしい中、自宅で非常時を乗り越える被災者には、おにぎりの1個も救援物資が届かない現実。
そして避難所によってはありあまるほどの救援物資が届くのも現実、現に全壊した義妹が避難していた小学校には、消費しきれない物資が届き、我が家におにぎりを持ってきた。

阪神大震災は冬でよかったと思う、これが夏であったならと思うとぞっとする。
ハイチのように気温が30度を超えるような時でなかったのは、不幸中の幸いだと思う。

震災から何日か経った時、A新聞で震災の川柳の特集を載せていた。その中に

被災地へ急ぐ背中の水の音  天根 夢草  という句があった。

忘れられない1句であり、後に私が川柳を教わる川柳作家の句であった。


震災余波・・・

震災は色んな形で傷跡を残した。
私と友人が16年ほど仲良くしていたHさんが、震災を機に離れていった。
3人とも上の子も下の子も同じ学年で、親同士何かと仲良くしていた。子どもたちが少し大きくなってからは何度か旅行にも行った。
抜けたのはHさんで、今も仲良くしているのはSさん。

Hさんが抜けたのはなるべくしてなったのだとは思う。
付き合っていくうちに?と思うことが増えて来ていた。約束の時間に現れないことは珍しくなかった。ケータイのない時代、30分はいつも待った。あまり遅いので家に電話をすると「今から出る」と悪びれることもなく言うことがあった。そのうち彼女との約束は30分早く伝えるようになった。常に遅れると待つ方より待たす方が慣れっこになった。「ごめん」と言っていたうちは良かったが、遅れて言い訳をするようになった。時間にもお金にもルーズだった。

震災の約4年前、我が家は今の住所に引っ越していたが、後の2人は割合近くに住んでいた。
Sさんの家は震災で全壊をした。全壊をして落ち込んでいるSさんに、デリカシーのない言葉を投げた。
Sさんは完全にHさんに対し心を閉じた。そんなことがあり駅前で出会っても、避けるようになったと聞いている。
一方私はSさんが家を再建するまでの、仮住まいを相談された。
当時マンションの管理会社に勤めていたので、社長とオーナーに頼み2棟持っていたマンションの一室を、借りる手配をした。こんなことがありSさんから信頼を得たのだろう。

あの未曾有の大震災で多数の家屋が倒壊し、直後から住まいを求める人が多く、震災から一週間後に住まいを捜し始めた時には、自力では見つけられないほど物件が不足していた。
現に管理人をしていたマンションも、57戸のうち震災前には14戸空き家があった。
しかし直後から入居の申し込みが殺到し、ガスも水も出ないマンションに「婿1人に、嫁6人」状態であった。
このマンション賃料が高く空き家が増えていたが、入居者が直後に「家賃が高いので下げてもらいたいと思っていたが、家族が皆無事でよかった。しっかりしたマンションに住んでいて助かった?」と言った。部屋から見えるアパートが2棟全壊したのを目の当たりにしての言葉だった。

元々3人はもめる元だったのかもしれない。ただ大人なので少しの心遣いで、上手く付き合うことは出来た筈なのにそれが出来なかった。

Sさんの家はその年の暮れに再建した、震災後、一度もHさんに会っていない。

   IMG_1379.jpg
 
  ↑《にわぜんきゅうギャラリーより》


振り返って

この大震災で、私の周囲では義妹の家と、2人の友人の家が全壊になった。
それぞれ一時よそへ避難していたがいち早く自宅を再建した。

我が家はと言うと築4年足らずのマンション、ローンをいっぱい抱えたマンションは無事であった。
しかし前述の液状化現象のため、地の底から噴き出した細かい砂が駐輪場や通路に積もり
ドロドロであった。その量は倒れた自転車を埋めつくしていた。
これは後ほどたくさんのボランティアの手によって建物の下に戻された。
しかし地面が沈んだため地面と建物の間に段差が出来てしまった。
これは管理組合によってスロープを新設したり階段を増やしたりの処置がとられた。

室内の整理にもかなりの日数を要したのは言うまでもない。
倒壊した家からガスが漏れているため元栓を閉められるまで、我が家の辺りは当日の夜まで
ガスは出ていた。今考えるとよく引火しなかったと思う。
落ち着いて新聞を読むことも出来ず、ただ余震に怯えながらテレビのニュースを見ていた。

電話も不通である、15年前ケータイはまだそれほど普及していなかった。
そして食料品が手に入らない。避難所には物資が届いても街に食料が売っていない・・・

1月22日NHKの特別番組「被災地からの声」を観ていると、普段なら感情を抑えているはずの
古屋和雄アナウンサーがポロポロ涙を流しながら番組を進行していたのが、印象的で今も忘れられない。
その後、古家アナウンサーは震災関連の本を出している。

3日目か4日目にチラッと見た新聞の犠牲者の住所の中に、一番の親友の家の辺りの住所を見つけた。
名前を見ると前の家のおばあさんらしい。ここで初めて親友の家の近所も、大きな被害を受けた
ことを知った。
急いで原付に乗り、震災後初めて友人の家に向かう。
そこはみたこともない光景・・・道路はパックリとセンターラインで大きな口を開けている。
しばらく走ると「ここから先は非常に危険である、もう少ししたら通行禁止になる。
帰りは通れなくなる」と言われた。それを承知で友人宅へ向かう。ここを曲がると家だと思う所には
崩れた家が道をふさいでいた。奥を見ると友人の家はある、建っている。
崩れた家の上を通り辿り着き呼んでいると、お隣の窓が開き小学校の体育館に
避難していると教えてくれた。すぐ教えられた体育館へ向かう。
扉を開けると、新聞やニュースで見ている光景がそこにあった。
名前を呼びながら体育館の中を歩いていると、顔なじみの方がいた。
Kさんは舞台の前だと教えられて前の方まで進むと、声がした。
ヨカッタ!ヨカッタ!抱き合い互いの無事を喜んだ。
この友人は今も1月17日になると地震のあった時間に目覚めると言う。
そして1日中フラッシュバックに怯えている。



あの日から・・・

15年経った、早いと思うか、まだ15年と思うか感じ方は色々だと思う。

阪神間に住みながら大した被害のなかった我が家、あえて昨日は書かないでおこうと思っていた。
しかし考えてみると新聞やテレビで目にするのは激震地と言われる、もはや再生不可能かと
思われるほど被災を受けた地域の目を覆うような被災の様子であり、それらの方が一時避難した
避難所の様子や復興住宅での様子である。またたくましく復興を遂げた街の様子である。
それほどの被災は受けていなくても、日常生活に困難を極めた少しだけ被災した者の様子を
綴っておこうと思う。

あの日、30分後には目覚ましが鳴りいつもと同じ日が始まるはずだった。
それなのに目覚ましが鳴る前の5時46分に激しく突き上げられるようなものすごい揺れで目覚めた。
怖い怖い!!と叫びながら頭から布団をかぶって揺れが治まるのを待った。
長い長い時間だと思った。その間、夫が自分の蒲団をかけてくれたように思ったが、
後でかけたのか偶然かは記憶にはないようだった。
揺れの最中「ワー」「ウオー」と夫の叫び声が聞こえたが見る余裕はなかった。
揺れが治まり第一声は「大きかったなぁ!」そして「箪笥が倒れてるんや」当然電気は点かない。
薄暗い中で目を凝らすと和箪笥の上の部分が夫の蒲団の上に倒れている。
「○美は大丈夫か?」と言われ娘の部屋へ声をかけると「怖かったよ!」とおびえた声がする。
無事だヨカッタ。
まだこの時点では未曾有の災害、地獄のような事態が起こっているとは知らなかった。
この街は新しい街でその当時は戸建て住宅がなくマンションだけの街であった。
ゆえに瓦の落ちる音も家の倒壊音も聞こえなかった。
外を見ていた夫の「雪が降ったんやなあ」と言う声で、私もベランダに出て外を見る??
何だか変だ駐車場も通路も何だか白っぽいが雪ではない。
マンホールが10センチぐらい飛び出している。
この白く見えたのが液状化現象と言う初めて聞く言葉のせいであった。

30分ぐらいで電気は復旧した、いつものようにパンを焼き?を飲んで出勤した娘と夫だったが、
徒歩5分の駅へ行くと線路の上に工場の煙突が倒れていて電車は不通になっていると
娘だけ帰ってきた。夫は甲子園まで行けば大丈夫だろうと歩いて行ったと言う。
悲しいほどのサラリーマン根性である。

この日から水もガスもない生活が続くとは思いもしなかった。
水は3週間ガスは4週間止まったままだった。
JRも阪神も阪急も電車は不通になり地獄の通勤が待っていた。
阪神高速も新幹線の橋脚も倒壊したのだった。

  



震災記念日

珍しく今朝は早く目覚めた。時計を見ると5時40分、今日は震災記念日・・・
あの時の記憶が蘇ってきた。ベッドの上で身じろぎもせず耳をすませ、時の過ぎるのを待っていた。
震災のあった46分が過ぎた。何事もなく静かである。


↓の防災メールを受信した。

にしのみや防災ネットからお知らせが配信されました。

【タイトル】
にしのみや防災ネットからのお知らせです

【内容】
阪神・淡路大震災から16年が経過しました。大震災の記憶を風化させることなく、経験と教訓の継承を行うため、各ご家庭で避難場所や避難経路を話し合ったり、家具の転倒防止や備蓄品などを点検し災害に備えましょう。また、地域で実施される防災訓練などの行事に積極的に参加しましょう。

当地区の避難所に指定されていた小学校が廃校になって以来、現在避難所がどこなのか把握していなかった。ネットで調べると想定していた小学校であった。

決して忘れることのない出来事であったにもかかわらず防災意識が低いと反省・・・?

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  《地すべり資料館》
大規模な地滑りが発生し13戸が押しつぶされ、34名の命が失われた住宅地に建てられている。