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旅行

友達との旅行も、もう長い間行っていないなあと思いながら、
よく行っていたころを懐かしんでいる。
確か長女が中1次女が4年生の時、仲の良かった今で言うママ友3人で、初めて旅行をした。
一泊二日のバス旅行、行き先は金沢だった。
3人での旅行は、阪神淡路大震災の前まで10年ほど続いた。
色んな所に行った。一泊が二泊になり三泊になり4泊になった。
夫も子どもも気持ちよく送り出してくれた。

金沢・伊勢・白浜・能登・東北・九州・四国・山口・北海道・・・
宿では夜の更けるのも忘れて喋った。

3人の旅行で萩・津和野へ行った時、台風が来ていたがツアーは決行された。
松下村塾を見学中、空は暗く今にも降り出しそうで、部屋の中はよく見えなかった。
あくる日、鍾乳洞へ向かったが、ケータイのない時代公衆電話から会社へ
連絡をした添乗員さんが、新幹線が運休するかも知れないので、このまま駅へ向かいたいと言う。
新幹線が運休してしまったら、それはまた厄介なことになる。
だれも声をあげて反対もせず、駅に向かった。
そしてお弁当を買い、新幹線に乗り込んだ。
新神戸駅から三宮に着いて、お茶でも飲んで・・・と思ったが、お店はどこも
閉まっていた。

この仲間での旅行は、ずっと続けられると思っていた。
ところが阪神大震災の時、Hさんが自分が元住んでいたマンションの
知り合いのところには行ったのに、Kさんのところには来なかったと
つむじを曲げてしまった。
その一件以来、3人で会うこともなくなった。

震災でKさんの家は、お隣の家が寄りかかってきて全壊してしまった。
マンションの管理人のおばちゃんだった私は、Kさんに頼まれて仮住まいを
社長に頼んでお世話した。
今も私はKさんとは仲良くしている。



~~~たぶん続く~~~

お盆休み

仏壇のない我が家にはお盆も普段と何も変わらない。

昔はお店もお盆は休んでいたが、今スーパーもお盆は休まない。
休むのは開業医と、一部の会社だろう。

実父が逝き。舅姑も逝ったので、本来ならお墓参りを
せねばならない。
ところが婚家は兄嫁も亡く、兄も何年も入院しており
お墓がどうなっているのか解らない。

実家とは、10年前両親を留守の我が家に置き去りにして以来
関係が拗れている。
何より両親をホームに入所させた際、こんなバカみたいな念書を書かされている。
そんなこともあり、昨年2月に父が逝って以来3回しか実家には行っていない。

兄嫁は一年以上入院しており、兄も今日入院し、明日内視鏡で胃のポリープを
取ると聞いている。

病気は誰だってするし、いつ誰がどのような状況でなるかは解らない。
ただ兄夫婦に限って言えば、罰が当たったとしか思えない。
思うに他人さまからみて、もちろん身内からみても何てバカなことをしているのだろうと、
あきれたり笑われたりするようなことをしてはいけないと思う。
みんな自分に返ってくるのだから・・・。

お盆にはお供えを送って、実家の方に向かって手を合わせた。
それで我が家のお盆は終わった。

実家のことを書くと、両親がつらい日を送っていたことを思い出し、気持ちが萎える

何だかなぁ・・・

昨年2月22日に、父が103歳で亡くなった。年齢にもちろん不足はない。
家族葬ではあったが葬儀をし、35日の法要、初盆もした。

今月は一周忌だが、義姉は圧迫骨折でもう7ヶ月も入院している。
おまけに兄は体調が悪いという。
それなりの年齢である。体調が悪いのも骨折をしたのも
仕方がないとは思う。
ただ我々三姉妹は、これまでの兄夫婦の両親への態度から、
天罰が下ったとしか思えないのである。

義姉の入院、兄の体調の悪化で一周忌の法要は、家族でお寺さんに行き、
お経を上げてもらうだけにするという連絡があった。
私たち姉妹も親戚も呼ばないで済ますと・・・。

せっかく103歳までも生きたのに、これではあまりにも寂し過ぎる。
人は呼ばなくても、きちんと祀ってくれるならいい。
だがそれさえも怪しい。お墓まいりもきちんとしているのかどうか・・・。

私たち姉妹は両親を特養に入れた時、「今後一切実家に口出ししません」と
いう馬鹿らしい念書を書かされたので、口出しは出来ない。
出来ないので、ここに悔しさをにじませて書いている。
まだ母がいるので、言いたくても言えない。

情けない兄を持って日々悶々としている。


身体障害者

ここには過去にも書いているが、私は約18年前に右脚の股関節を、また約8年前には、左脚の股関節を人工関節置換手術を受けているので、今は2種3級の身体障害者である。

そして夫もまた昨年から、病気により1種4級の身体障害者になった。
夫の場合、現状が今よりよくなることがあるかも知れないということで、再認定を課されていた。
市役所から書類が届いたので、先日心臓血管外科の主治医に意見書をお願いしていたのが届いた。
それによると、夫も今回から3級に該当するらしい。夫婦して3級の身体障害者になってしまった
感染症のためたくさんの薬を飲んでおり、胃管胸骨前手術、食道抜去などのため、
充分に食事の摂れない身体であり、また1年半もの間、胸に約5ミリの穴が開いている。
これも感染症によるものであり、半永久的に塞がらないようである。

これが老いた我が夫婦の現実であり、ありのままを受け止めねばならない。

27年@股関節


出版に思うこと

酒鬼薔薇と言えば、あのおぞましい事件を思い出されると思う。
神戸市の新興住宅地で起きた、連続児童殺傷事件である。
14歳だった少年Aは、現在32歳になっている。

今回”絶歌”を出版したことで、また世間の注目を浴びている。
当時から陰では実名報道はあったが、元少年Aとしての出版。
出版するなら堂々と実名ですべきだと思う。

被害者遺族の気持ちを無視して、なぜ出版したのか?
やはりまだ尋常な心を、取り戻せていないとしか思えない。
当時は少年であっても現在32歳、贖罪の意味を込めて
実名での出版が本筋だと思う。

事件当時、マンションの管理人のおばちゃんだった私、
姉がこの地域に住まいしており、被害者家族と知り合いだった。
またマンション管理会社の社長も、この事件のあった地域に住んで
おり、社長の息子が、この少年Aと同じ学年だった。
そんなこともあって、警察の発表の前に少年Aを知った。

被害者の頭部を校門に置くという、尋常では考えられない
行動を取った犯人が、14歳の少年だった。
狂気としか言い様のない少年。しかし未成年と言うことで
法の下に家族共々守られた・・・。



印税は遺族に渡すと行っているそうだが、どこまでが本当かはわからない。
ただ良識ある書店の店頭には、並べて欲しくない思う。

昨日、ショッピングモールの書店をのぞいたが、目につくところには
なかったのでホッとした。
もちろん店内にはあるだろう、客が絶歌云々と言えば、奥から出して
くるのだと思う、それがいい。


私は読む気はないが、全く別の事故の被害者の立場で読んだ人の感想は、
「読めば分かるが、結局自分を救済する為に書いたと。
償いの言葉を少しでも書きながら、実は自身の救済の為。
加害者が今までの事を淡々と綴っているような印象しか受けなかった。
人殺しの言い訳だと言う人が圧倒的に多いだろう。」

と書いている、その通りだと思う。
責任を取れる大人になって、元少年Aはないと思う。

何年か前、犯人の母親が手記を出したらしいが、それさえも正気の沙汰とは
思えない。
担ぎ出す人があり、ゴーストライターもありなのかも・・・。
何とも厭な世の中で、我々は生きているのだろう。


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ほぼ判っていたこと

夫に春の叙勲の内示があった。
退職する前から、70歳になったら対象になるとは聞いていた。
ただ昨今は、非常に厳しいとも聞いていたので、体調のこともあり、
残念な結果になることを、望んでいたのは古女房の私。

ここにアップしたように、昨年の9月に役所から申請するようにとのことで、
申請をしていた。
それが今回審議の結果、晴れて叙勲を受けることになったというわけ。


一般職の元国家公務員を叙勲の対象にすることに、否定的な
ご意見があるのは知っている。
それは関係機関の決めることであると思う。
尤も夫たち一般職が受けるのは、ごくごく下位のもの。


本来なら名誉なことと、夫婦手を取り合って喜ぶべきことなのだろうが、
私の本心は罰当たりにも、あまり嬉しくはないのだ。
夫は5月11日に行われる、伝達式に出席する意向である。

病気で倒れる前から私は、「そういうことになっても私は付いて行かない」と
宣言していた。

夫は在職中、何度も霞が関に出張し、多少は東京を知っている。
しかし私は全く知らないのだ。病身の夫と行ってもし何かがあっても
何もフォローが出来ない。

次女が埼玉にいるから、同伴は娘でいいと思っていた。
娘も私も、恥ずかしながら色留袖を持っていない。
でも娘に同伴を頼むなら、買ってあげるつもりでいた。

それが同伴は、妻に限るのだそうである。
万が一、対象者が車いすなどで、介助が必要であれば、
娘でもいいらしい。

娘たちに、決定の知らせをLineで送ると、「冥土の土産に行って来たら
いいじゃない」という。
冥土の土産ねぇ・・・。

問題は、ハードなスケジュールに耐えるだけの、体力があるかどうかである。
伝達式の後は皇居にあがるのだそうで、それはそれは厳しい警備の中、
しずしずと上がらねばならないのだろう。
叙勲が生涯に一度なら、同じように皇居にあがるのも、一度きりしかない
チャンスではある。
しかししかし・・・。私にとってはハードルが高い。

しかも頼りの夫は、安心して見ていられる状態ではないのだ。
自宅にいるように疲れたといっては、すぐ横になれるわけではないのだ。
こんな状態の夫を一人で行かせることも出来ない、嫌でも付いて行かねばならない。

スムーズにことを運ぶには、式典が行われるホテルに、宿を取らねば・・・
それには早く会場を知らせてほしい。
宿が決まれば、モーニングも色留袖もレンタル予約をせねば・・・。

新幹線のチケットも・・・。

ネットで見ると、26年春の会場は東京プリンスホテル(鳳凰の間)だったらしい。


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      東京へ行く体力を振り絞る   タンポポ

1月17日

阪神大震災から今日で20年になりました。
今日は大地震が起きた時刻の3分前に、目が覚めました。
時計を見ながら、どこか身構えていました。
これはこの20年変わりません。
今日は午前9時から防災訓練があり、外のスピーカーの呼びかけで、自宅で電気ガスを確認し、ダイニングテーブルの下で身を護りました。
9時半には防災担当委員が、一軒ずつ無事を確認するというシュミレーション通りに終わりました。

先日来、新聞もテレビも20年20年と騒ぎ過ぎているように思う。
騒がなくとも被災地にとっては、決して忘れてはならないことであり、家族や大切な人が犠牲になった方々、あるいは住まいを一瞬にして無くした人たちにとっては、忘れようにも忘れられない日なのです。
私の二人の友人の家と、義妹の家が全壊しました。

我が家も一部損壊でした。

このブログに引っ越しをする前のブログは、あの日の出来事を思い出して綴っていました。
上手くこちらに引っ越せた記事と、消えてしまった記事があります。
右の月別アーカイブの1月の中から、残っている記事は見ていただけると思います。
11年のは消えているようです。

それとは別に震災後、当地で見たこと感じたこと、私が経験したことを「1995年1月17日阪神淡路大震災の私と家族」と題して、当時使っていたワープロで打ったものが数枚あります。


後に起こった東日本大震災の時は、整形外科で椅子にかけてホットパックをしていた。
遠く離れた地の地震をかすかにグラッと感じた、この時は自分の体調が悪いのかと思うぐらいだった。


阪神大震災は、いつもの起床時間の30分ほど前だった。
突き上げられるような揺れと、夫のわぁ!という叫びで飛び起きた。
真っ暗な中、何が起こったのかと、考えていると、大きかったなぁ・・・と夫の声、続いて箪笥が倒れてる・・・。
目を凝らすと、和箪笥の上の部分が倒れていた。

当時、自宅通勤をしていた次女の無事を確認する。

ベランダに出て外を見た夫が、雪が降ってるなあと言う。
私も外に出て駐車場の方を見る。雪??
これはあとで解ったことだが、液状化と言う初めて聞く言葉と現象だった。

電気は30分後ぐらいに点いた。しかしこの日から3週間レバーを下げても、一滴の水も出なかった。
我が家は朝、テレビを付けない生活をずっとしていたので、情報のないまま買い置きの水でコーヒーを沸かし、夫と次女は一緒に家を出ました。
しばらくして次女だけが帰って来て、駅の構内に工場の煙突が倒れていて、電車が不通になっていると言う。
お父さんは?」と訊くと甲子園まで行けば何とかなるだろうと、行ったとのことでした。
甲子園まで行ったものの、電車は阪神、阪急JRとも、不通になっていました。

戻ってきて自転車で出かけましたが、阪神高速道路の倒壊現場を見て、気分が悪くなり帰って来ました。
当時、国家公務員だった夫は当日出勤出来なかったことを、退職するまで悔やんでいました。
翌日からは自転車で出勤と言う、魔の通勤地獄でした。
倒壊した住宅やガス漏れで危険な場所を迂回しての、神戸三宮までの通勤でした。
疲労が激しく私の原付で2~3日通勤したのですが、慣れない原付で車道を走らねばならないのは、自転車より疲れるとのことでまた自転車通勤になりました。


17日の夕食まではガスは出ていました。あるもので夕食を食べ洗い物をしようとして、ガスが止まっていることに気づきました。この時から4週間ガスは使えませんでした。折れたガス管に泥が入って、復旧が遅れていると聞きました。

取り敢えずは電気鍋が役に立ちましたが、カセットコンロとガスボンベを探し回り、3日ほどしてやっと手に入れました。

スーパーから身近な食料品が消えたのです。もちろん水やパンもありません。
でも出先で食べる昼食もありません。夫も娘もお弁当持参でした。
お野菜がたくさん手に入った時は、調理してタッパーに入れ、皆さんに食べていただくよう夫に持たせました。
キャベツを一個ボイルして、サラダにしたのをとても喜んでいただきました。
娘は会社の一人暮らしの女性船員さんの、お弁当も持っていきました。

スーパーへ行けば、何でも揃うのが当たり前だったことが、そうではなくなったのです。
大阪へ行けば品物があり、普通に生活が出来ていましたので、大阪まで買い出しに行く人も多かったのです。

そんな中で神戸市出身の○原慎○郎氏が、故郷神戸を心配して神戸入りをするという連絡があり、役所では頭を抱えたのです。
宿泊も食事も十分でない神戸に、このタイミングで入る。それは役所にとって非常に頭の痛いことです。
それでなくても仕事は山積み、職員も全員出勤できる状態ではないのです。
これはホテル側の協力や警察の協力があって、何とか無事にことなきを得たと記憶しています。

1月22日のNHKの特別放送「被災地からの声」を見ていると、普段なら感情を抑えてニュースを読む古屋和雄アナウンサーが、涙をポロポロ流しながら番組を進行していたのを、今もはっきり覚えているのです。

この時入ったお風呂の一つに、プールの水を沸かしたカルキの臭いのするお風呂がありました。




阪神電車の運転再開は、梅田→甲子園(1月18日)
                梅田→青木 (1月26日)
                梅田→御影 (2月11日)
                全線開通  (6月26日) 予定より3カ月早く再開された

この間バスでの輸送があり、不便ながらも自転車通勤からは解放される。

               4月1日 JR東海道線開通
               6月12日 阪急神戸線開通

谷川俊太郎著  こころより


こころ ころころ


こころ ころんところんだら
こころ ころころころがって
こころ ころころわらいだす


こころ よろよろへたりこみ
こころ ごろごろねころんで
こころ とろとろねむくなる


こころ さいころこころみて
こころ ころりとだまされた
こころ のろのろめをさまし

そろそろこころ いれかえる



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私もこころを入れ替えないといけないのかも・・・
こんな心が欲しいと切に願っているのですが・・・実際は↓な心を持て余しています。



 醜いこころ   タンポポ

優しさもおおらかさも失ったこころ
こちらが凹みあちらが欠けた醜いこころ
デコボコになってしまった私のこころ
弾力性を失った悲しいこころ

カチカチに凍ってしまったこころ
もっときれいだったこともあったこころ
たった三年で醜くなっってしまったこころ 
いいえ六十六年かけて醜くなったこころ

もう元には戻らない真っ黒なこころ
悲しみを包み込むことのできなくなったこころ
思いやりをなくしてしまった醜いこころ

澄み切った青空のようなこころが欲しい


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神様に見透かされそう蒼い空   タンポポ




青い空白い雲

   @R0019513@

    《鬱々としては駄目だと空が言う     タンポポ》

朝夕はめっきり涼しくなった。
キッチンで火を使ってもあまり暑くなく、料理をしようかという気にもなる

お天気がよく空がきれいだ清々しい気分になれる筈なのに、イマイチこの青空のようにスカッとしない。
過去4回の手術のように命がけではないが、7回目の手術に前向きな夫と、止せばいいのにと心の片隅で思っている、私の心のせめぎあいが原因だと思う。


ホント疲れたなあ~・・・。

わたくしの老後は 限りなくグレー    タンポポ

突き放し・・・(^_^;)

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今日は夫の通院日。予約は13時半。
昨日から、非情に体調が悪い私。
原因は恐らくストレスからくる疲れ。
長期の入院から解放されて、幾分気が楽になったとはいうものの、昨日など朝から息をするのもしんどいという、病人と一緒にいるのは心底疲れる。                   《フェイジョア?》

そんなこんなで、今まで辛うじて持ち堪えていたものが、一気に噴き出したというところかも
快気内祝いをしたのも一因かも知れない。

昨日は午前中ディーラーさんに行き、帰りスーパーによって帰り、午後から殆ど寝ていた。
夕食の時間が近づくが起きられない、夫はどうするだろうかと考えながら寝ていた。
案の定「夕飯は何にする予定か?」と訊きに来る。
「鯖の味噌煮・・・」「どうやって作るのか?」
料理をほとんどしない男に、口で言って通じる筈もない
こんな時のために、冷凍の療養食を置いてある。それを食べようという気も回らないようだ。
ウロウロとキッチンを歩き冷蔵庫を開けている。
「Mタイムのおかずセットがあるでしょ?あれ食べて!あとお豆腐があるから」

大病をしたからって、私より先に逝くとは限らない。
1人で生活が出来るようになってもらわないと、困るのは自分なのだ。

お風呂上り「明日の病院は、電車で行ってくる」
「明日の朝にならないと調子はわからないから」と言いつつも、内心ヤレヤレ


っということで1人で行きましたが、それはそれでまた心配・・・。
ストレスの発散に、映画でも行きたいのですが、この心模様では楽しめそうもありません。







ライフライン

震災関連はこれで終わりにします。

今の世の中で、食べ物と水を求めて東奔西走するなど考えてもいなかった、一被災者のひとりごと、最終章です。

電話の通じない日も5~6日あった。無事を知らせることも出来ずにいた。

レバーを押すとを勢いよくきれいな水が出る、ボタンを押せば青い炎のガスが出る、こんな当たり前の日常が一変した。

高架水槽が空になりピタリと止まってしまった水、歯磨きをする水もコップ一杯の水さえもない。
当日スーパーの開店時間に行くと、すでに大勢の人が開店を待って並んでいた。
店内も商品が棚から落ち、大変なことになっていたにも拘わらず定時に開店した。
どっと流れ込む人々でいっぱいになる広い店内。危険回避のため入場制限をされる。
店内から出てくる人の手には飲料水、ポリバケツ、ポリタンク、赤ちゃんのミルク等々。戦利品よろしく抱えている。
ここで、これらの物も必要ならば、持ち合わせが少ないと気付き、ATMへ行くが閉まっている、当然である。
店内に入れた時には飲料水もお茶もなかった。1ケース持っているお兄さんとすれ違いに「いいなぁ水欲しい・・・」言うと1本譲ってくれた礭助かった。その時点ではガスは出ていたので、火にかけると食べられるアルミの鍋に入ったうどんを買った。カップラーメンの類はなかった。
もうこれで安心と思えるほどの食料は買えなかった。バケツもポリタンクもなかった。
今主流のポスレジがまだ珍しい時、導入していた店ではレジが水に浸かり自慢のポスレジが使えず、手打ち&電卓でしのいでいた。ふとレジから店の外を見ると入店を待っている人たちの顔が引きつっているようだった。

水道についての第一報は、夕方には復旧の見通しとのことだったが、時間が経つにつれ見通しがつかなくなっていった。当日から近くの中学校の校庭に給水車が来ると言うことだったが、道路状況が悪く深夜に少しの水を手にすることが出来た。ポリタンクもきれいなバケツもなく、薬缶と鍋に貰ってきた。それからの4~5日、水と食料を求めてあちこち原付を走らせた。

そんな時、マンションの集会所の前の水道管が割れて水が出始めた。保健所の「飲料水にOK」のお墨付きで薬缶に鍋にバケツにと一日に何度も水を汲みに降りた。2~3日するとそこは立派な共同水汲み場になった。足元を固め掬っても砂が入らないよう、そしてそんな水汲み場からでも、水を手にすることが出来る安心感が住民の中にあった。
道路の向かい側の歩道からも水が出始めた。しかしこちらは飲料水にはならず、お手洗いや洗濯に使った。
数日後、マンション内に、管理組合が給水車の手配をした。
しかしどこに行っても手に入らない、新しいバケツとポリタンク、無性に欲しかった。
ゴミ袋を入れたバケツに水を入れ、口を結んで何度も往復した。重かった。
後にこれが引き金になり、脚を悪くしたのだった。こんな水汲みの生活が3週間続いた。

その内仕事も行くようになると、昼間に来る給水車の利用が出来なくなった。
自衛隊の船まで水を貰いに娘の運転で行くと、親切に実に丁寧に接してくれ、ポリタンクを4つ車に乗せてくれた。ありがたかった??

レバーを下げ水が出た時の、あの瞬間の感動と感謝、ありがたい、大切に使わねばと思った。
最近のレバー式蛇口は、上にあげると水が出るようになっている、これは震災の経験からこうしたのだと聞いた。
上から何か落ちてきても、蛇口から水が出っぱなしにならないようにとのことである。

ガスは当日の夕食にあるもので雑炊を炊いたのが最後、4週間止まったままであった。
その当時、我が家はカセットコンロを使っていなかった。まずはカセットコンロとボンベを買わねばとスーパーへ行く。
その店舗は2階部分が日用品売り場になっていたが、混乱を避けるためかどうか震災後しばらく客は上に上がれなかった。
階段の下の台に色々な物を置き「それ、これ!」という風に買っていた。そこに箱に入ってないコンロを見つけて「コンロとボンベ!」と言ったもののボンベは売り切れだった。とりあえずコンロだけ手に入れた。それから量販店に足を運んだがやはり売り切れていた。コンロは手に入れたもののボンベがないのが恨めしかった。
しばらく浅い電気鍋で食事の用意をしていた。
ある日、量販店でボンベが一人1個買えると聞き昼休みに買いに行った。ずるいと思いながらも2回並び2個買った。
計8本のボンベがやっと手に入った。

お風呂のこと食料のこと住まいのこと、本当に色々あった。
物に不自由をした覚えのない戦後生まれの私、パンさえ買えなくなる現実に、ただただ必死の毎日だった。

被災地(避難所)へ優先的に食料品を回すと言う決めごとがあるらしい中、自宅で非常時を乗り越える被災者には、おにぎりの1個も救援物資が届かない現実。
そして避難所によってはありあまるほどの救援物資が届くのも現実、現に全壊した義妹が避難していた小学校には、消費しきれない物資が届き、我が家におにぎりを持ってきた。

阪神大震災は冬でよかったと思う、これが夏であったならと思うとぞっとする。
ハイチのように気温が30度を超えるような時でなかったのは、不幸中の幸いだと思う。

震災から何日か経った時、A新聞で震災の川柳の特集を載せていた。その中に

被災地へ急ぐ背中の水の音  天根 夢草  という句があった。

忘れられない1句であり、後に私が川柳を教わる川柳作家の句であった。