FC2ブログ

おじいちゃんは昔お猿さんだった。

私は3~4歳の時、人間は昔猿だったことを知った。
それは衝撃だった。そして同居している祖父に訊いた。
「おじいちゃんは昔猿だったの?」
すると祖父は「そうや、裸でキャッキャッ言うて木登りしていた」と
言った。トンチのきくおじいちゃんだった。
その話を聞いて私は、何も疑わなかった。

それどころか、何を食べていたん?
どこで寝ていたん?
お父ちゃんやお母ちゃんはいたん?と質問攻めに
したのを覚えている。
何て馬鹿だったのだろう。

今にして思えば当時の祖父は、まだ60歳になっていなかったと思う。
祖父は私が物心つくずっと前から、雑俳(ざっぱい)を楽しんでいた。
母も同じように雑俳を楽しんでいた。
祖父は青山・母は山の子と言う俳号を持っていた。
雅号を持たず本名で通している私より、ずっと上だと思う
思いついた時にメモが出来るように何時も耳に短い鉛筆を挟み
ポケットには紙を入れていた。
自宅で句会があったり、自転車で会場へ出かけていた。

いつだったか大きな優勝?カップを持って帰って来た。
縁側でにこやかに写真を写した。今もその顔を思い出す。

私と長姉が20年余り川柳と関わっているのは、祖父の血が
流れているのだと思っている。
厳しくも優しく、そして働きものだった。
祖母が逝って4か月後、追うように逝ってしまった。
もう40年余りになる。
祖母が逝ったとき、寝ていた祖父に「おばあちゃん死んだよ」と
伝えると「そうか、おばん死んだんか。何時や?」と何度も
聞いたのを思い出す。

兄夫婦との意思の疎通が出来ない今、お墓参りも出来ない
罰当たりな孫たちを、どう思っているだろうか。

不眠症№2

昨夜は次女の幼かったころを思い出そうとした。
ところが長女と同じように、同じ長さの幼い頃があったにも関わらず、
次女の幼かったころのことは、あまりたくさん思い出せない。
真っ先に思い出したのは、2歳3か月ぐらいの時、長女が幼稚園に行っている間に
JRの駅前の大型スーパーに行った。
何気なく子供服を見ていると「誰の買うの姉ちゃんの?」と何度も言う。
普段お下がりばかり着せられているので、「私にも買って!」と言いたかったのだろう。

親の懐具合を知る由もないが買って!とは言わなかった。
買ってとねだらない子が不憫で「Sちゃんのスカート買おうか?」と言った時の
嬉しそうな顔 そんなわが子が愛おしかった。
翌日そのスカートをはいていると、ご近所さんが何人も「Sちゃん新しいスカートやね、かわいいよ」と
声をかけてくれる。
それがまた嬉しくて「昨日おかあさんと○○で買ったの
宿舎生活で見栄を張る必要もなかったが、子どもは正直だった。

しかし考えると次女はこの時、既に口が達者だった。
もちろん40年あまり経った今も口達者である。

不眠症

私タンポポはいつからか不眠症になっている。
若いころはバタンキュウで寝られたのに、最近はほんと寝られない。
睡眠導入剤のお世話になる日もあるが、出来るなら飲みたくない。
ある人が寝られないときは、楽しいことを考えたらいいと教えてくれた。
しかしながらそうそう楽しいこともない。
そこで子育てをしていたころの諸々を、思い出してみることが多い。
22歳で長女を25歳で次女を産んで、まだまだ若くて元気だった
あのころのことを思い出す。

夕べは長女の2歳半ぐらいの時の事件を思い出していた。
その日は給料日だった。まだ手渡しの時代で、夫は出向していた。
買い物に行ってきてお財布はすっからかんになっていた。
宿舎内でお友達と長女は遊んでいたが、お友達も帰ったので、
帰ろうといっても嫌と言う。夕飯の準備もあるのでちょっと手を引っ張った。
その途端に泣き出した。その時は解らなかったがよく見ると手をブランと
して泣いている。どうも肩関節が外れたようだ。
病院へ行かねば・・・でもお財布は空っぽ。

まだ銀行のカードもATMもない時代。そして銀行の窓口も閉まっている
夫がお給料をもって帰るまでまだ少し時間がある。長女は泣きじゃくっている。

仕方なく勤務先に電話をして、夫につないでもらった。
事情を話し、帰ってきてくれるよう頼んだ。
夫も子どものこと、すぐに帰ると言ってくれた。
そして夫が帰宅し無事に病院へ行って、元に戻してもらった。

そんなことを思い出していて、あの時も夫は怒らなかったなと思った。
人によったら怒る人もあると思う。
私にとって長い結婚生活のなかの、唯一の大失敗だったと思う。

おばあちゃんの思い出

祖母が亡くなって、もう40年になる。
農作業のない冬場は、ずっと和服を着ていた。
そして首には、ネッカチーフを巻いていた。
今時のおしゃれな、スカーフでもストールでもない。

私が高校生の時、今でいう脳梗塞になった。
その時、祖母のことを、ずいぶん高齢だと思っていたが、考えると今の私ぐらいの年齢であった。

今年は寒くて仕方がなく、ふと祖母のネッカチーフを思い出した。
あの頃、暖房は炬燵と火鉢だったと思う。
和服の首筋は、さぞかし寒かっただろう。

今冬、私はタートルネックが手放せないでいる。
この調子では、春まで手放せない気がする。
我が家には炬燵がないく、下半身も冷える。
この冬は、ぬくぬくの裏起毛のパンツを買った。
これが温かい去年まではパンツの下にレギンスを穿いていたが、このぬくぬくパンツのおかげで、レギンスは要らない。

和服の足元はどんなに寒かっただろうと、あのころの祖母の年齢になって初めて考えた。

軟骨無形成症

テレビでIPS細胞が、この病気の薬効を確認したというニュースをみて、初めてこの病気の名前を知った。
染色体の異常なのか、50年前の高校の同級生の顔とよく似ていた。
ダウン症の人の顔に特徴があるように、この病気もネットでみる限り、みんな同じような顔をしている。

同級生の彼女は、すでにお母さんがそ亡くなっていて、お父さんと姉さんや兄さんと暮らしていると聞いていた。

身長約120センチぐらいだったか、そう手足の長くない私より、手足が極端に短かった。
私は同じような体型の人と会うのは初めてだった。
他のクラスや学年から彼女を見に来た。

当然と言えば当然で体育は苦手だった。
でも他のことは何でもできていた。特に珠算がよく出来て、字もきれいだった。

何かの病気だなと思っていたが、本人に聞くのは躊躇われ、病名を知らないまま卒業した。

高1のある日、その友人も入れて5人で遊びに行こうと云うことになった。
当日お弁当を持って集合場所に行ったが、彼女は来なかった。
お姉さんが”○○さんですか?Iの姉です”と声をかけてきて、一緒に行けないことを聞いた。
一緒に行けない、行かせない?理由は解らなかった。
多分、迷惑を掛けないようにとの配慮だったと思う。

みんなと一緒に掃除もした、昔のことで廊下の拭き掃除もしていたが、「足が短い=スカートが短い」ので、廊下の雑巾掛けをすると、下着が見えた。
みんなで話し合って彼女は、廊下の拭き掃除はしなくてもいいことにした。



体育祭前日のホームルームの時、担任が苦しそうに”Iさんを体育祭に出さないようにと校長から言われた”と言った。
Iさんの席を見るといなかった。
血の気の多かった私たちは、怒った怒った。グランドにいた校長に詰め寄った。
脱いであったスーツの上着を、みんなで踏んづけ破いて放り投げた。

翌日、彼女が来なかったら、迎えに行くことを決めて、学校に行った。
彼女は、何事もなかったように登校してきた。
小さな身体に、強い意思を持っていることに感心し、そんなクラスメイトが自慢であった。


教育者が、こんなことを言うなど、今なら絶対にあり得ない話だと思う。
もしそんなことを言ったら、ニュースになり、実名でネットで叩かれるに違いない。。

50年前の教育者は、こんなことを平気で言ったのだ。


今から薬剤が開発されても、同級生は救えないが、この病気で苦しんでいる多くの子供たちを、救えるようになればいいなと思う。
IPS細胞の計り知れない可能性に拍手



天気予報通り

今朝起きると、うっすらと一面の雪景色でした。
もちろんこの冬初めての雪です。
10時半ごろに出かける予定だったので、日陰の雪が溶けてなかったら嫌だなと外を眺めていました。

雪が残って凍っていたらで行くのは怖いですからね。
aozora@の気持ちが通じたのかどうか、出かける時間にはどこにも雪はありませんでした?

ここからは昔話しです
aozora@がまだマンション管理の仕事をしていた時、すごく雪が積もったことがありました。
16~7年前あるいはもっと前かもしれません。
窓口で座っているだけの仕事に、雪の中行かなくてもいいかなと思っていると、社長から電話がありました。
裏出入り口のドアのガラスが割れていると、連絡があったので雪の中で申し訳ないが遅くなってもいいので、とにかく見に行って欲しい。そんな電話でした。網入りの分厚いガラスがどうして割れたのか!?
言われた以上は仕方なく、いつものように原付で恐々出勤しました。
かなり積もっていてソロリソロリ走りました。甲子園の駅前の信号で停まった時、ものの見事に原付ごと滑って転んで・・・。
恥ずかしさと格好悪さで急いで原付を起こし、信号がかわったので何事もなかったように走り出しました。
マンションに着いて、止めた原付を見ると、後ろに付けていたカゴがありません?

帰りも同じ道を通るので、あったらいいなと思っていましたが、残念ながら見当たりませんでした。
交通量の多い道路で落ちていたら危険ですよね。どなたかが処分なり移動なりしたのだと思います。
何分その場所は甲子園警察のすぐ近くですから・・・。

雪が降るとその時のことを思い出します。

ガラスは下の方が蹴飛ばしたのかと思うように割れていました。
当時としては、珍しく裏も表もオートロックで、家賃の高いマンションでした。
保険屋さんに連絡をして見にきてもらいました。



もう一つ雪の思い出は中学の2年生だったか、風邪を引いて2~3日休んでいました。
そんな時、大雪が降ったのです、風邪ほとんど治っていました。

見たこともないほどの大雪に、嬉しくて興奮しました。そしてカメラを持って外にでました。
庭や山、田んぼ、夢中でいっぱい撮りました。
もちろん雪の玉を作って一人雪投げをしました。も作りました。

その当時は白黒フィルムで、現像してがっかりしたものです。

60年あまりの人生で、数少ない雪の思い出です。


いよいよ9月

と言っても何も変わりませんね。
相変わらず暑さが厳しいうえに、時々ゲリラ豪雨・・・。
今朝方も、ものすごい雨でした。それなのに川柳に行こうと外へ出るとギラギラと照っているお日様、湿気の高いのにうんざりでした?

新しいネタがないので古い話を(-_-;)
10年前の今日9月1日は、次女の結婚式でした。朝からバタバタしていましたが、こんなに暑くはなかったです。

前日の夜10時を過ぎてから、キッチンのシングルレバーの水洗が壊れてしまいました。
翌日は、結婚式でほぼ1日留守にするので放っておくわけにもいかず、そんな時間に近くの水道業者さんには連絡がつきません。仕方なしにテレビCMをしている業者さんに、電話をしました。
1時間位経ってきた業者さんは、今積んでいるのはこれだけと言って、こちらは選ぶことも迷うこともなく取り付けて、それなりの金額を請求して帰っていきました。

翌年から9月1日が来ると、結婚式よりこの水洗レバーのことを、先に思い出しているのです。


  
  


大雨の思い出

九州では先月に続き、また大雨による大きな被害がでています。
予測の出来ないゲリラ豪雨、怖いですね。

aozora@の大雨の記憶は、田舎の純真な高校2年生の時だったと思います。
当時の淡路島にはまだ電車が走っていましたので、電車通学をしていました。

その日の朝のお天気のことは覚えていませんが、お弁当を食べて5時間目の授業を受けながら、外を見ると近くの学校の生徒が、帰宅しているのが見えました。

「そうだよね、こんなに雨が降っているのに、何で授業をしなきゃいけないのよ」と内心思いながら授業をうけました。
そして5時間目が終わって、最寄り駅に向かい帰宅をしようとしました。
最寄駅から3つ目の駅の構内が、水に浸かり電車が入れないという事態が起きました。
aozora@が降りる駅は、水に浸かっている次の駅・・・。
そこで電車は前の駅まで戻ったのです。それから電車を降りて国道を二駅分歩き、自転車は駅に置いたままで帰りました。
その間、国道の両側の田んぼは、国道の高さとほぼ同じ高さまで水がありました。
今はこの国道添いも田んぼが減って、こちらにある色々のチェーン店ができています。

自宅近くまで帰ると、増水した小さな川の両側に立っている消防団のおじさんに「こんな天気に今頃まで何しとったんや」と頭ごなしに叱られました。
言い返すことも出来ず、膝まで水に浸かってスゴスゴ帰りました。

もう一回は平成16年だったか、姑の葬儀に夫より一足早く、義妹と淡路へ夜の11時に出発したことがありました。台風の2~3日後だったか、よく休憩をしていたパーキングエリアの、広い場所が大きな岩やがれきで埋まっていたのです。そにお光景はショックでした
自動車道のほとんどは山を拓いて作った道路です。一時通行止めになっていた場所は山の斜面が崩れたのでした。

葬儀や初七日を終えて帰ってくる時、上り線のパーキングエリアは閉鎖されていました。

萩へ旅行に行った時は、台風と道連れだったのを覚えています。

これ以上の被害が出ません等に。


えのころぐさ.jpg

《エノコログサ》


ペンフレンド

今は友人との連絡はメールや電話で取りあうため、手紙を書かなくなってしまった。そう親しくない人とは存在をアピールするかのように年賀状だけが行き来している。
そんな私でも昔はペンフレンドが3人いた。小学校の5年生から20歳ぐらいまでのことである。
昨夜沖縄が舞台のドラマを観た。沖縄を身近に感じた時に思い出すのは「沖縄県東風平村」のk友名洋子さん。合併して、今はこの地名の村も町もないようである。当時はまだ沖縄は日本に復帰しておらず封書に貼ってある切手は¢だった。絵葉書が送られてきたり方言を書いてあったりと楽しく文通をしていた。結婚して2度ほど手紙は届いたが自然消滅した。

2人目は「宮城県仙台市東十番町」の社宅に住んでいた加藤やす子さん。こちらはスキー場での写真や家族旅行の写真が送られてきた。
どちらかと言うとこの加藤さんの方が手紙での話が弾んだように思う。
学習雑誌に載っている学校へ文通希望の手紙を出したことがきっかけである。2人から手紙が来て文通を始めたのだった。思えばえらい積極的なことをしたものである。怖いもの知らずというより、平和な美しい日本であったのだ。

3人目は淡路島内のYYさん。こちらは2年間だけだった。家は父がいる病院の近くであった。探せば簡単に見つかるだろう。

3人の少女とどんなことを手紙に書いていたのかほとんど忘れているが、純粋でたわいのないことを書いていたように思う。
十年ひと昔なら50年も前のことなら、既に大昔のことである。
日本昔話・・・○○編というところであろうかФ