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97歳、母の骨折&手術

17日にケアハウスにいる母が、骨折したと孫の嫁さんの
Mちゃんから連絡があった。
大腿骨顆上骨折だと言う。膝のすぐ上の骨折のようだ。

車椅子生活の母が、なぜ膝の上を骨折したのか不思議だ。
そして昨日手術をした。
内臓の病気なら、この年齢になると手術はしないが、骨折では
痛みがあるので放っておくことも出来ない。

2時間あまりの手術だったが、何分にも97歳。
全身麻酔に耐えられるのか心配だったが、手術は無事終わった。
術後の医師の説明の中で、この病院で一週間ほど入院した後
本来ならリハビリのため転院するが、どうするかとの話になった。
認知症が進みベッドから車椅子への移乗も、介護なしでは出来ない。
いくら頑張って痛みに耐えて、リハビリをしても歩くことも立つことも
もう出来ない。
何より自分の状態を把握出来なければ、リハビリの意味も無い。
っと言うことで、ここを退院したら恐らくお世話になっている
ケアハウス併設の病院に移ることになると思う。

県立淡路医療センターは初めて行った。
私が子どもの頃からあった県立病院が新築移転して
6年ほど前に、この医療センターになった。
それまで医療の陸の孤島と言われ、大きな手術ややっかいな病気の
患者は島外へ運ばれた。
私の兄も30年ほど前、ドクターヘリで神戸の大学病院へ運ばれた。
この立派な病院が出来たことで、その心配がなくなったのだろうか。
そうなったなら嬉しい。
立派な箱が出来ても肝心の医者がいないとどうにもならない。

広い敷地に平面の駐車場と駐輪場があった。
障害者用駐車スペースと自転車置き場、通路の屋根がなんと
瓦葺きなのにはちょっとビックリした。
淡路島は瓦の生産が盛んなんですよ。
リンクの未来工房瓦人


昨日の手術に、実子で大事に大事に育てられた兄も兄嫁も全く
役に立たず否、立とうとしないことにあきれ果てている。

神戸の姉と私、そしてMちゃんが仕事を休んで来てくれた。
兄は最近狭心症の発作が起きるらしいし、兄嫁は家の中でも
杖をついて手すりを持っての移動で介護認定を受けているという。
病院など外出先では車椅子だそうな。

私たち姉妹は、12年前両親を厄介払いし、留守の我が家の玄関先に
置き去りにしたその罰が当たったと思っている。
一切の家事はMちゃんがしている。

父も母も息子夫婦に邪魔者扱いされた時、96歳と85歳まだ自分の脚で歩いていた。
約90度に腰が曲がった母は、それでも屋敷周りの草ひきをしたり、自分たちの
洗濯をしていた。
そしてみんなの洗濯物を時間をかけて取り込みたたんでいた。



         @@大腿骨顆上骨折


良いように考えれば、昨日兄夫婦に会わなくて良かった。
会えばまた情けなさと苛立ちで、平常心ではいられなかったと思う。
情けないが、これが私の否、三姉妹の偽らざる気持ちなのだ。


お恥ずかしい内容でした<(_ _)>



     親のオムツ換えたことない親不孝   タンポポ


逝った父のも換えたことのない、親不孝な罰当たり娘達、否三婆です。

顔を忘れられた親不孝な娘・・・。

神戸の姉と久ぶりに、母に会いに行って来た。
4Fでエレベーターを降りて部屋を覗いたが居ない。
母は認知症が進んで、一人でこのフロアーから移動は出来ないので、
その辺ににいるだろうと思い、キョロキョロすると居た。


横に行って声をかけても、イマイチ反応がない。
久しぶりだった私が「誰?」と自分の鼻を指して聞くと「M子」と言う。
M子は叔母ですぐ下の妹だ。
以前はじ~と顔を見て、記憶の奥から私の名前も出ていたが、前回から
出なくなった。
過去には何度も、母の一番下の妹T子叔母とは間違えられていた。
私もT子叔母も末っ子なので、、途中で一緒になっていた。
その叔母が亡くなったことを覚えているのかどうか、初めてM子叔母と
間違えられた。

姉が自分を指して聞くと「N子」合っている。
やっぱり顔を見せないと、忘れられるんだね。
お母ちゃん親不孝な娘でごめんね。
2~3年前までは、私たちが行くと同じ話を何度もしていたのに
昨日は「M子」「N子」と言っただけだった。自分からは全く
喋らなくなってしまった。
とにかく耳が遠いので、真正面で喋っていては聞こえない。
耳に口を付けて喋っても、興味を示さない。
目の前に私たちがいても、こちらをじっと見ることがない。

スタッフさんのお陰で、安心して居られるのは本当に有り難い。
母は7月で97歳になる。後何年生きられるか解らないが、残された日々を
穏やかに過ごして欲しい。
我が家の玄関先に置き去りにされて、もう12年が過ぎた。

父が逝き、両親を邪険に扱った義姉は自由の利かない身体になった。



           @IMG_0316a.jpg


         認知症の母と向き合う談話室   タンポポ

母に会いに

枚方の姉と母の面会に行ってきた。
私はずいぶん久しぶりの親不孝娘。
それでも母は、じ~と顔を見て記憶の底から私の名前と
顔を引き出してきて、○○代と解った。
ほっ!良かった、今回も忘れられていても仕方がないなと
覚悟をしていた。
何分にも我が家は、5年前私が両親の面会に行った
日の夜、夫が吐血をした。それがトラウマになっている。
それで気にはなっても、出かけられないでいる。
二度とそんなことがあっては困るが、どうしても気になる。

2人の姉がこまめに行って、様子を知らせてくれるので
安心している。
受付で面会票に名前を書いて上に上がる。
母の今いるフロアーは、入所者が勝手にエレヴェーターに
乗り込まないようになっているので、いったん2階で降りてスタッフに
4階まで同行してもらう。
エレヴェーターの中でスタッフが「娘さんですか?」
「昼間もうつらうつらしていることが多いのですが起きていれば
いいですね。」などと話しかけてくれる。

エレヴェーターを降りると談話室にいる母がみえた。
良かった起きている。

耳も遠いし目もあまり見えていない母とのコミュニケーションは
難しい。
一方通行である。
つい2~3年前なら行くと、待ちかねたように話をしたものだが
最近は姉たちが行っても、一言も喋らなかったということがあるが
昨日はよく喋った。
嫁から受けた辛い仕打ちも忘れて、嫁のことを悪くは言わない。

父が亡くなったことは解っている。
一人の世界に浸っているのか「おじいちゃんが死んで・・・」
「みんなで一緒にご飯を食べるのに、料理を頼んであるねん」
「招待状は届いたか?」などと聞く。
どんな世界にいるのか知る由もないが、「いやあ未だ来てないわ。
それは楽しみやなあ」と話を合わせておく。

母の話を聞いているうちに、お風呂の時間になったので
お礼を言って帰って来た。

母の話に耳傾ける談話室   タンポポ

行けば本当に安心して帰って来れる。
いつ行ってもスタッフの皆さんに、感謝の一言なのだ。
本当にありがたい。
施設での暴行事件がニュースになったりするが、
我々姉妹は、そんな心配は皆無である。
ありがたい。
次はいつ行けるか解らないが、安心して帰って来たのは
言うまでもない。ありがとう。
お母ちゃん元気でいてね。親不孝娘だけど忘れないでね。

母に会いに

先週夫と、3月2回目の淡路島行きをした。

目的は3っ、母との面会、夫の兄の見舞い、

夫の亡くなった兄の家を訪問。


最初に母がお世話になっているケアハウスに向かう。

親不孝な娘で、母の面会はずいぶん久しぶりだった。

3月に長姉が行ったとき、みんなで撮った写真をみて

1人1人指さして誰?と聞いた時、私が判らなかったと

聞いていた。

忘れられているだろうなと、一応覚悟はしていた。

フロアーに上がると、テレビの前に陣取っている

母がいた。

テーブルを挟んで、私は誰?と鼻を指さした。

すると母は自分の鼻に、なにか付いているのかと

鼻を触っている。

耳がほとんど聞こえてないのだ。

横に行って同じことを訊いてみるが反応がない。

顔に表情がないのだ。まるで死んだような眼をしている。


母の口から、一度も私の名前が出なかったが、一緒に行った

夫を見て「元気になったなあ」と言う。

名前は出なかったが、娘であることは判ったらしい。

部屋に行き、持ってきたジュースとお饅頭を食べる。

以前は行くと色々喋っていたが、最近はめっきり

喋らなくなった。寂しいことである。

素人目に見ても、確実に認知症は進んでいる。

96歳、仕方のない事だと思う。


目の前にいると未だしも、後ろに回るともう忘れている。

持って行ったお菓子の入った袋が気になり、中を覗き

一袋お菓子を出して食べる。

もうそのことだけに意識が集中し、我々のことは

完全に記憶にない。


少し前までは、何もすることがない、ご飯を食べるのが仕事

いつも美味しく頂いていると言っていた。

今もそのことに変わりはないが、とにかく自分から話さなく

なってしまった。


母が口を開いたのは、「元気になったなあ」の一言だけだった。








母の面会

昨日は二人の姉と、母がお世話になっているケアハウスへ面会に行ってきた。
認知用で耳の遠い母には、部屋の入り口で声をかけても聞こえない。
部屋に入って、とんとんと腕なり肩を叩いてやっと気付く。
昨日も窓の方を向いていた母の手をとんとんとするとやっと気付いた。

私はずいぶん久しぶりだったので、忘れられてるかなと思っていたが
顔を見て「○代はえらいせんどぶり(久し振)」やなと言った。
忘れられてなかったことに一安心する。
そして3人で来るのもせんどぶりやと嬉しそうであった。

かなり大きな声で話さないと、会話は一方的になっていまう。
自分の年齢、私たち娘の年齢を訊いてみた。
母は現在95歳だが90歳と言う、私は69歳だが64歳だと言った。
だんだんこんがらかってきて、長姉に至っては明治生まれだという。
息子も孫もごっちゃになってしまった。

それでも自分の両親の没年はしっかり覚えていて、その時の自分の
年齢も覚えていた。

ここの職員さんは私たちを見かけると「ありがとうございます」と先に挨拶をしてくれる。
こちらが先にお世話になっていますと挨拶をすべきなのに・・・。
本当によくしていただいている。
世間では老人施設での事件や事故がよくくニュースになっているが、私たち姉妹は
まったくそんな心配をしていない。
日常的に何かそんなことがあれば、気付くよねと3人の意見が一致する。

そしてこれは時々思い出したように言うことなのだが、「死ぬまで一回○代の車で
産まれた家に行きたい」
母は養子娘なので産まれた家は、85年住んで理不尽にも追い出された家である。
母の気持ちは痛いほどわかるが、車いす生活でおそらく今は一歩も歩けない母を
連れ出すのは容易ではない。
連れ出すとすれば、リフト付きの介護タクシーでないととても無理だと思う。
願いを叶えてあげられれば、最後の親孝行になるだろう。

しかし介護タクシーで行ったとしても、歓迎されないのは私たちには解っている。
車椅子で家の周囲をぐるっと回るのが、精いっぱいだろう。
切ない母の願いを叶えてやりたいと思う。

母に会いに

バレンタインの14日、母のいるケアハウスに三姉妹で行ってきた。
ケアハウスにつきエレベーターを待っていると、お風呂に行く母と職員さん
そしてもう一人入居者さんが降りてきた。
お風呂なら仕方ないなと思い、上がって待っていた。
日当たりのよい暖かい場所で、三人で喋っていると以外に早く
母が戻ってきた。

親不孝な私は母に会うのは3か月ぶり
毎月行っている姉たちから、今の母は自分から喋らなくなってしまったと
聞いていた。認知症が進んでいるのだ。
ところがこの日の母は割合しっかりしていて、自分から喋っていた。

長姉が「2月11日は何の日?」と聞くと、母はじ~~と考えているが答えられない。
紀子(次女)の誕生日やでと言うと、そうや紀元節で付けたんやと笑顔。
続いてじゃあ私(長姉)の誕生日は?ときくとちゃんと答えた。
そして聞いていないのに長男の誕生日も言えた。
じゃあ私はと聞くと24年4月24日と答える。残念ながら1年と4日間違えている。
まあ50%の正解率95歳の認知症である、良しとしよう。

歳老いてからも記憶力がよすぎて、嫁に嫌われたころの母を思うと、
悔しい思いもあるが、実家にいたころの嫌な思いを、今はほぼ忘れて暮らしている。
それでいい・・・それがいいと三人で話している。

母残し寂しさ残しケアハウス   タンポポ
安心を確かめに行くケアハウス 裕美

母に会いに・・・

昨日は、久しぶりに母がお世話になっている施設へ行って、母の顔を見て
こようと思っていたのに、朝から雨・・・。
やめようかどうしようかと時々空を見上げていた。

11時頃雨が上がり陽がさしてきたので
高速に乗る前に再び雨、いったん出かけたので続行を決める。

いつもながら阪神高速は渋滞している。全く時間の読めない路線である。
1時間15分走ってやっと淡路サービスエリアである。
ここでトイレ休憩&スタバでちょこっと腹ごしらえ。
島内は工事で車線規制があるも、スイスイ。

高速を降り一般道を走り、施設に到着したのは1時45分。
部屋に母はいなかったので、聞くとリハビリだという。
仕方なく待っていると、ほどなく車いすを押してもらって帰ってきた。

私が指で自分を指して「誰?」
母「・・・」じ~と顔を見ている。
しばらくして「○代(^^)」
ああ~良かった。親不孝な娘だけど完全に忘れられてなかった。
話をしていても、随所に認知症を感じる。
間もなく94歳になる母。
自分の誕生日は覚えているが、娘や息子の誕生日はもうあやふやである。
耳も遠い。私が自分の年を言っているのに、話では兄の方が年下になっている

「ご飯は美味しく食べている?」と聞くと「美味しい、いつも残さず食べている。」
「何にもしないからどうにかお箸を持ってご飯を食べる、それだけ・・・」と言う。

職員さんはみんな明るくて優しい。
よくニュース沙汰になるような心配を、我々姉妹はしたことがない。
施設に行っていつも安心して帰ってくる。有り難いと思う。
夫のことがあり、なかなか顔を見に行けないが、行けば本当に安心出来る。
姉たちが行けば、必ず電話で様子を知らせてくれるので、そんなに心配はしていない。
しかし、自分の目で見ると一層安心できる。
後、何年生きられるかは解らない。父と同じまで生きるなら10年ある。
さてどうだろうか?高齢者はいったん体調を崩すと、難しい。
なんとかもう少し、このままのんびり過ごしてほしいと思う。

母の面会に

昨日、姉達と母の面会に行ってきた。
いつものように大阪の姉をJRの駅で拾って

神戸の姉との待ち合わせは、明石海峡大橋を渡ってすぐのSA。
お天気もよく渡ってきた大橋が綺麗に見えた。

    @unnamed橋


昨日も道中、三姉妹は、姦しく楽しく行ってきた。
我々は4人兄姉である。長女、次女、長男、三女の私。
学年で言えば長女と末っ子の私の差は6年。
長女と次女は1年、次女と長男は2年、長男と私は3年。
何かに付け長女を頼りにしている。

途中ここで昼食を摂って、母のいるケアハウスへ行く。

昨日の母は、いつになくはっきりしていてホッとするが、
93歳になった母の認知症は、確実に進んでいる。

試しに我々の名前を書かせてみたら、書けた\(^_^)/
生まれた年も覚えていた。
しかし残念ながら、自分の歳を3つ鯖をよんでいた

刺激のない毎日は認知症を進ませるが、あのまま産まれた家にいたなら
今は生きていない筈。これでよかったのだと、帰り道毎回のことながら
話しながら帰る。
我々の訴えで、老人虐待から両親を救えたことに満足をしている。
父も103歳まで生きられた、このことにも満足をしている。

いずれ自分たちも歳をとることを、忘れていた70歳の兄嫁は
現在圧迫骨折で入院している。もう3ヶ月になる。

お買い物など、寄り道をしなかった昨日の走行距離は、203,3キロ。

2ヶ月ぶりの面会に

一昨日、母の面会に三姉妹で行ってきた。
今までなら「両親の面会に」だったが、父が亡くなり母だけとなった今は、
「母の面会に・・・」キーボードを打っていて、少し寂しさを感じる。
4月に姉妹3人で行くと、3人一緒に来てくれてうれしいと大喜びだったので、
今回も3人一緒に行ってきた。女3人はかしましい

2人の姉は毎月行っているが、私はこのところ頻繁には行けない親不孝者である。
姉たちが行けば必ず様子を知らせてくれるので、長い間行っていなくても様子は
解っている。
しかし急速に認知症がすすむ母を、目の当たりにすると、悲しさより寂しさが増す。
4月に行った時には気付かなかったが、認知症が進んでいるせいかどうか、
写真をみたり新聞をみたりしている時も、うなり声のような声(音)がする。
まもなく93歳、仕方がないと言えばそうなのだろうが、寂しい。
ゆっくりゆっくりだった父に比べると、あまりにも進むのが速い。



母の面会

父が103歳で逝って、もうすぐ2か月になる。
葬儀の時、介護タクシーで施設から来た母と会ったが、去年の9月に
面会に行って以来、私は行ってなかった。
昨日は姉二人と一緒に、面会に行って来た。

施設に行き、父が長い間お世話になった病院へお礼に伺った。
「○○の娘です、いや三婆ですが・・・」と長姉
持参したお菓子を手渡そうとすると「○○さんから、いただいてますよ」と言う。

そこで初めて孫嫁のMちゃんが、父の荷物の引き取りに行ってくれたと、気づく三婆。
きっと連絡があり、早い時期に引き取りに行ってくれたのだろう。

私達3人のお礼の気持ちを伝えて、渡り廊下で繋がっている母のところへ行く。
母は入浴中だった。
少し荷物を片付けたりしていると、お風呂からあがってきた。
お風呂で「○○さんご面会ですよ」と言われ誰が来てくれたのかと思った。
3人が一緒に来てくれて嬉しいと、喜んで何回も同じことを言う。

「お父さんが死んだこと覚えている?」と訊くと「覚えているよ70年あまりも一緒に居たんやし・・・」と
まともな答えが返ってきてびっくり。
尤も我が家の玄関に置き去りにされ、約2か月後、特養入所。
その半年後から、父は病院とケアハウスを行ったり来たり。
母も大腿骨を骨折後は特養を退所し、同じところでお世話にはなったが、
介護度が異なるからか、一緒には暮らしていなかった。
そういう細かいことは、もう母の頭では理解出来ていない。
でも結婚して70年あまりと言うのは、合っている。それでよい。

ここにいたらありがたい、朝起きたらパジャマを脱いで服に着替えさせてもらって、
朝のお茶が出てくる。
ご飯をみんなで美味しくいただく、何も云うことがないと嬉しそうに言う。
それを聞いて、我ら三婆は本当に安心する。

産まれた家で大勢の家族がいて、その中で辛い日々を過ごしていた母には、
天国のようなのだ。

両親を施設に入所させたことで、兄夫婦と一悶着も二悶着もあったが、これでよかったの
だと思っている。
8年前のまだ寒い2月、留守の我が家の玄関に、高齢の両親を置き去りにしたことに対し
いささかの痛みも感じていない人たちに、言われる筋合いはないのだ。

我が家で2か月過ごした母を、連れて帰った時「誰も帰ってきてもいいとは言ってないぞ!」と、どの口から出た言葉なのか忘れているらしい。
その言葉を聞いたから、市役所へ相談に行ったのだ。

この2年で母の認知症はずいぶん進んだ。
面白いのは父の話をすると、
「おじいちゃんだいぶ呆けとったな、時々おかしなこと言うとった」
三婆「
まだ自分は呆けていないと思っているらしい。それも良し、なんたって誕生日が来たら93歳なんだから。

さて後何回、母の面会に行けるだろう。
生きているうちに、一回でも多く面会に行けたらいいと思っている。
父の死が急だったように、母にも一歩ずつ父のいる世界が近づいているのは、確かなことである。

もちろん我々三婆だってそうだが、母より早く逝ってはならないのだ。


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母はヘアカラーをしていないが、姉二人より黒々している。




父のお通夜・告別式

103歳で逝った父は、22日のブログにアップしたように、18日からゼリー食も摂れなくなり点滴をしていた。


危篤の連絡が入るまで病院へ行かなかった兄は、19日に何かの拍子に転んで脇腹を骨折したと言う。
それみたことか、罰が当たったとしか思えない。18日に病院へいっていれば、骨折はしなかったと思う。
単なる偶然かも知れない。しかしそういう風にしか取れない、我々の関係なのだ。

我が家の近辺にも家族葬専門のセレモニーホールが次々と出来ているが、私自身、家族葬に参列したのは初めてだった。

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お通夜には隣保の方がお参りに来て下さったが、葬儀は本当に身内と昔からのお隣のみだった。
男兄弟ばかりの父の兄弟は、長男以外は入り婿となった。
その兄達もとっくに亡くなっているし、実家の甥も亡くなった。
父方からは甥の娘婿、姪の息子、姪の3人の参列である。

柩の中を見ると、父が昔丹精込めて育てた牛を、品評会に出した時の写真があった。
誰が気づいたのか、(兄だろう)入れて貰えてよかったと思った。


亡骸は控室のガラスの向こうにあり、三姉妹と義兄はそこで泊まった。

本来なら喪主である兄は、亡骸に一晩付き添わねばならないと思う。
骨折の影響でそれが無理なら、嫁か息子を残すべきであろう。
兄嫁も体調が悪いのは知っている。
誰であれ喪主である兄の一家の誰かが付き添う、それが供養だと思うし。
また年老いた父にしたことを悔いる、恥じる、或いは謝罪の気持ちを持って付き添って欲しかった。
それなのに、我々に任せてさっさと帰った。

それはそれで、三姉妹は通夜だというのに、遠慮もなく笑ってばかりいた。
大好きだった甘いものを供えようと、スーパーに走った。
あんぱん・どら焼き・プリンを買ってきて供える。
翌朝も煙草を供えようと、またスーパーへ走った。


施設から介護タクシーで来た車いすの母は、一番最近会った昨年9月より、ずいぶん目がしっかりしていた。
母に「誰におじいちゃんが死んだって聞いたの?」と訊いた。
すると「施設の館内放送で、お悔やみを申し上げますと、云うので聞いていたらおじいちゃんだった」

普段の母ならさっき聞いたことも忘れるのに、前日のことを覚えていたのにはびっくりした。
刺激があるというは、脳が活性化されるのだとつくづく思った。

置き去り記念日を前に逝った父

  @1102.jpg


記念日にも色々あると思う。
嬉しい記念日、悔しい情けない記念日、人の数だけそれはあると思う。
私達三姉妹にとって2月23日は、忘れられない悔しい日である。
2007年2月23日の午後、留守の我が家の玄関先に、両親が置き去りにされた。
かわいがっていた孫によって、認知症を発症していた父と、足腰の悪い母が黙って置き去りにされた。
宅配便でも留守伝票を置いて再配達をするのに、黙って留守宅に置き去りにされた
(気になる方はカテゴリ両親をご覧ください)

私はこの3年、夫の病気で両親の面会に殆ど行っていないが、姉二人は月に一度は必ず行って、様子を知らせてくれる。
19日にも長姉から行って来たと、電話があった。
その時、職員さんから「ゼリー食も摂れなくなって点滴で栄養補給をしています」
「長男さんに一度来院をお願いしましたが、行けないと言われまして・・・」

姉は恥ずかしく、また申し訳なかった、どこまでも恥さらしなんだろうねと話した。
他人ではない、一番迷惑をかけてきた親なのに・・・。
もう長くはないね、104歳の誕生日は無理やねと話して切った。
今週火曜日は、夫の次の手術のための日程を決める診察日で、それ以外の日は行けるかな?と思っていた。

ここまでを、明日23日にアップする予定で、下書きをしていた。


そして今朝、父が亡くなったと兄から電話があった。
兄の声を聞いたのは何年振りだろう?
恐らく病院から、危篤の知らせを受けて行ったのだろう。
朝病院へ行き、帰って食事をしようとしている時、連絡が入ったと言った。
父の年齢に不足はない。大大往生だと思う。


今にも死にそうか、そうでないかは素人にも解るだろうに、最後を見届けなかった。
家を出されて丸8年、兄夫婦は両親の面会は皆無と言っていいほど行ってないのだ。
せめて最期を看取る気持ちは、なかったのだろうか?

まだお通夜も葬儀も何も決まっていない。

義姉からの電話(これもこの8年間無かった)で、取り敢えず家に連れて帰ってくるので家に来て欲しい、よろしくお願いしますと言った。これもまた「お願いします」の言葉を知っていたのかと思った。

これを読まれた方は、小姑の意地悪が・・・と思われるかも知れない。
でも、2か月ぶりに我が家から自分の生まれた家に帰った母に、「誰も帰ってきてもいいとは言ってないぞ!!」の、兄の叱責にびっくりして、市役所に行き、ありのままを話し、当時通所していたデイサービスの職員さんや、ケアマネさんからの話しを総合し、長寿福祉課が下した決定だった。

父が亡くなったことは今は悲しくはない。この一連のことを思い出す方が悲しくて悔しい。

今日、8年ぶりに60年住んだ家に戻ることが出来る。



老後破産

先日NHKで放送された番組”老後破産”その言葉の響きに、いたたまれない思いで見入った。


我々シニア世代には、うかうかしていると老後破産というとんでもない現実にぶつかるよと、警告をされているようで、見終わって何とも後味が悪かった。

高齢者人口が3000万を突破し、超高齢社会となった日本。
中でも深刻なのが、600万人を超えようとする、独り暮らしの高齢者の問題だ。
その半数、およそ300万人が生活保護水準以下の年金収入しかないという。
生活保護を受けているのは70万人ほど、残り200万人余りは生活保護を受けずに暮らしている。
年金が引き下げられ、医療や介護の負担が重くなる中、貯蓄もなくギリギリの暮らしを続けてきた高齢者が“破産”寸前の状況に追い込まれている。


在宅医療や介護の現場では「年金が足りず医療や介護サービスを安心して受けられない」という訴えが相次いでいる。
自治体では、必要な治療や介護サービスを中断しないように、生活保護の申請手続きに追われている。

国民年金は、老後のお小遣いという意味合いで作られた制度だと聞く。
家族が一緒に住み老後のお小遣い、それならわずかな金額でもやっていける。
生活費と言う意味合いではなかったのだ。
しかし国民年金だけで、老後を暮らしている高齢者が多いのが現実である。

国民年金の両親の場合、1回の受給額は、父が6万円足らず、母が7万円足らずと、思ったのは8年前。
特養に入る前のことだから、今はもっと減っているのだろう。
我が家の玄関に置き去りにされたとき、母は通帳を持って出ていた。
特養に入った時、籍は特養に置き、通帳は特養に預けていた。
そして特養を退所してケアハウスに入った時点で、荷物とともに籍はまた生まれた家にもどった。
それ以来我々は通帳をみていない。


両親とも特養に居られたなら、わずかな年金で賄えていた。
父が半年で特養を出て、病院とケアハウスを行き来しているうちに、恥ずかしながら、この「老後破産」の状況になっている。

お迎えが来るまで、自宅で暮らせると思っていた両親は、年金や働いて得たお金を言われるままに、息子夫婦に用立てていた。
その結果、現在、父の年金では1ケ月分しか賄えなくなっている。
あとの1ケ月分は、4人の兄妹で4等分して支払っている。

両親が我が家の玄関に、荷物のように置き去りにされた後、私が母を、大阪の姉が父の面倒をみていた。
神戸の姉は息子夫婦とさほど広くない家での同居。
長姉には知的障害の息子がいる。
私は、この年の夏、次女のお産があった。その後、左脚の手術を控えていた。
3人とも親をずっと見られる状況ではなかった。
市役所の計らいで老人虐待の救済措置として、特養の入所を進めてくれた。


話し合いを知らない兄夫婦は、自分たちのしてきたことを棚に上げて、怒り狂った。
兄嫁は「あんたらは、親を捨てて家に恥をかかせた」と怒った。
留守の我が家の玄関に親を捨てたのはあんたらや・・・と、言いたいのをグッとこらえた。
兄は「お前らが勝手にしたこと、儂は知らん!」と怒った。

そんなことがあって入所の書類に、兄が判を捺す際、我々3人は[今後一切実家のこと、両親のことに口出しをいたしません」と、しょうもない念書をかかされた 

そんなこんな修羅場?をくぐりぬけ、両親は今穏やかに暮らせている。

そして母も今のケアハウスが長くなったので、特養に移って介護保険でお世話になるらしい。
特養に居た頃は認知症のなかった母も、今は急激に認知症が進んでいる。
介護保険を使うと、以前の特養のように費用は安くないだろう。
母の貯金が底をつくのも、時間の問題だと思う。

両親が特養に入った時から、いつか必ず貯金が底をつく。その時のためにと、三姉妹で積み立てをしている。
父の費用の4分の3は、ここから出している。

しょうもない念書を書かせておいて、父の費用を3人で負担せよとばかなことを言ってきた。
一切の口出しをさせないでお金は出せと・・・
まったく、何をか言わんや。両親は4人の親であり、我々3人は嫁いでからただの一度もお金の無心などしたことはない、と突っぱねた。

馬鹿につける薬はない・馬鹿は死ななきゃ治らない・・・と言うがホントにそうだ。
血を分けた兄妹ながら何とも情けないことである。

2月に一度、お金が云々と言ってくるのは、兄夫婦の息子の嫁さん。
こんなことぐらい自分たちで、言って来ればよさそうなものを、情けない限りである。


カテゴリ「両親」には、これまでも少し書いているが、また恥を忍んで書いてみた。
8年前の2月の、あの日のことを思い出すと、ふつふつと活火山のように怒りがわき出てくる。

長寿の両親


昨日、部屋に入ると先月103歳の誕生日を迎えた父に、職員さん手作りのバースディカードが壁に貼ってあった。
今の父には、自分の年も誕生日も解らない。

8年前、特養に入所した時、住所氏名生年月日を書いて若い職員さんに”スゴイ!”と拍手をしてもらった。
この時も、すでに認知症を発症していて、ゆっくりゆっくり進んでいた。
100歳の時は”100歳になったよ”と言うと”えらい長生きしとるのう”と言った。
今は耳もほとんど聞こえていないので、会話もかなり困難である。

母は昨日、叔母をみて”歳とったなあ”と言った。
自分の歳を、この時点で間違えていて90歳だと言った。
叔母が”私が88歳で姉ちゃんは92歳やで”と言うと、しばらく考えて”そうだったかいな、この頃呆けてるねん”

10年後、20年後の自分が、どうなっているのか怖くて仕方がない。
もっともその時、生きていればの話ではある。

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  午後5時ゴロの《明石海峡大橋》上り線SAから。

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  同じく5時ごろの《下り線のSAにある観覧車》上り線からみたもの。

親不孝娘ですが

叔母と従妹と姉二人と、両親の面会に行って来た。
夫が倒れて以来数えるほどしか両親の顔を見に行っていない親不孝娘 。
こまめに行っている姉達から、その都度様子を聞いているので、そうびっくりするほどの変化はなかった。


坂道を転げるように、認知症が進んでいる母のことを、叔母がショックを受けないように、先日から話してあった。
今日も食事をしながら、我が家に置き去りにされた前後のことを話すと、メガネを外して涙を拭いていた。
この様子では、涙のご対面になるだろうと思った。

ケアハウスに行くと、母は部屋の入り口に背を向けて、車いすに乗っていた。
入り口で3回声をかけるも聞こえない。横まで行って声をかけると「ハイ」と返事した。
横を向いたその顔は、喜怒哀楽を忘れた認知症の老人の顔だった
そして、5か月も行ってない親不孝娘の名前は、しばらく出てこなかった。
お母ちゃん親不孝でゴメン

そして叔母の登場・・・姉が「珍しい人が来てくれたよ」と叔母を横に座らせた。
母はしげしげと叔母の顔を見て、じ~と考えている。
そこで叔母は泣き出すかと思ったが、ニコニコと笑顔。
母の口から「M子やな」

叔母が「姉ちゃんの夢を見たから会いに来たよ」とやっぱり笑顔
涙のご対面にはならなかったが、感動的な10年ぶりの対面となった。
しばらくすると母の顔が、だいぶしっかりしてきた。
何もすることがなく部屋で一人いると、認知症が進むのも無理はないと思う。
しばらくケアハウスで喋っていたが、渡り廊下で繋がっている父のいる病院に、母の車いすを押して行った。
103歳の父は病院、92歳の母は同じ敷地内にあるケアハウスで、お世話になっている。


父のところへ行って、寝ている顔があまりにも、小さくなっているのにはびっくりした。
介護師さんに車いすに乗せてもらって、少し時間が経つと段々戻ってきた。
何故、あんなに小さく見えたのかは解らない。
姉も1か月前にあった時は、こんなに小さくなかったのに何でやろ?と言った。
車いすに乗って、大きなプリンを自分で食べた。
それはそれは、びっくりするほどのスピードで食べた。
甘いものは美味しいと、言いながらニコニコ顔で食べた。
一つ食べて、まだ食べると手を出した。
大きなプリンを2個も食べさせると、食事に響くので預けておくからねと言うと、にこっとした。
甘いものが大好きで、少し前まではアンパンやどら焼きを持って行っていたが、今はとろみ食のため、そういったものを食べさせてあげられない。
今差し入れが出来るのは、プリンのみ

私は次いつ行けるか解らないが、姉たちが行った時、叔母が来たことを覚えているかどうかは甚だ怪しい。
今の母はそんな状態であり、父も今まで前にいたのに、後ろに回るとすっかり忘れてしまう。

母をケアハウスに連れて戻ってきて、我々が帰ろうとすると「1階に降りる・・・」
介護士さんに、連れて降りても良いか聞くと、1人で帰ってくることが出来ないので、ダメだと言われた。
つい最近まで、1人で降りて新聞を読んだり、売店に行ったりしていたのに・・・。

悲しい現実であるが受け入れねばならない。





高齢の姉妹

両親の面会に行った二人の姉が、最近の母は自分から口を開かなくなったと言う。
認知症が、確実に進んでいるのだろう。
そんな母がぽつりと「M子に会いたい」と言ったのは7月だったろうか。
母の云うM子は、大阪にいる母の妹、米寿になる。
最初は次女姉に、次は翌週行った長女姉に、言ったという。

2人とも、叔母も1人では来られないだろうし、自分たちも連れてこれないので、難しいね。と言って帰ってきたと電話があった。
3人の中で唯一車に乗る私も、大阪のおばの家まで迎えに行くのは、自信がない。

先日、従妹と電話で話しをする機会があったので、母が叔母に会いたいと言っていることを、世間話のついでに話した。
すると、「昨日実家へ行っていて、叔母さん叔父さんのことを話したのよ。万が一亡くなっても連絡はないかもね。家族葬ですませたと言うかも・・・そんな話をしていたんよ」と言う。

「お母さんにおばさんが会いたいって言ってる話をするわ、行くと言ったら主人が乗せていくから」
そうなればいいなと思っていると、翌日従妹からの電話で「夕べおばさんの夢を見たっていうのよ、会いたいって言ってるよ。と伝えると、今までなら疲れるとか体調が悪いとか言っていたのに、連れて行ってほしいって・・・」
何でも叔母が母の夢を見たと、知り合いに話すと「奥さんそりゃに一回会いにいきなはれ、行かんと後悔するかも知れまへんで・・・」と言われその気になったようだ。

88歳と92歳、お互い何があっても不思議ではない年齢である。もう一人86歳ぐらいの叔母もいる。

話しはトントンと進んで、来週の火曜日に行くことが決まった。
私も約5か月ぶりに行くことにした。従妹とも叔母とも約10年ぶりの対面になる。
時々叔母とも電話で話していたが、この1年半ぐらいは話していない。

両親のことでは、いっぱい話したいことがある。
お天気でありますように・・・


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どきっ!!

父がお世話になっている病院から電話がかかってきた。
なにぶんにも102歳の高齢なので、ドキッとする。

長姉がこの前行った時は、大きなプリンを1個食べたと聞いていた。何かあったか
検査の結果貧血が進んでいるので、治療法として輸血の伺いだった。

私達姉妹は、両親が特養に入った時、兄夫婦から「一切の口出しをしない」というバカみたいな念書を書かされた。
我が家の玄関に置き去りにされたことに端を発している。
そんな一件があっても、実家に連絡がつかなければ、私のところに連絡がくる。

電話をかけてきた職員さんによると「男性の方が出られたのですが、長男さんがお留守ということで・・・」
実家は兄夫婦・息子夫婦・息子の子供二人の6人家族である。
昼間のあの時間に子供はいないだろうから、兄でなければ甥だろう。
甥の仕事は時間がちょっと不規則と聴いている。
とは言え40歳を過ぎたいい大人である。親への用件の一つも聞けないのか

今実家から両親の面会に行ってくれるのは、甥の嫁さんと子供だけ。
そこで甥の嫁さんに「帰ったとき、まだ病院からの連絡を受けてなかったら、私にこうこうで連絡があった」と伝えてとメールをした。
親が親なら・・・
まったく、常識のない手のかかる人たちである。

ああ~~情けない

両親の面会に

三姉妹で行って来た。
前にも書いたが、102歳の父と91歳の母は施設でお世話になっている。

姉たちは毎月のように行っているので、両親の近況は聞いている。
しかし私はこの1年間、夫の病気で行けなかった。
昨年4月26日に、行って以来だった。

この4月26日は、私にも夫にも忘れられない、悪夢の日になってしまった。

この時も入院中だった夫は、熱が出なければ体調がよく、この日も外泊をしていた。
このころはまだ体力があったので、病院から電車で戻ってくることが出来ていた。
そこで私は、両親の面会に行ったのだった。

夕食後、大量吐血という、とんでもないアクシデントがあり、救急車で病院に戻ったのだった。
その後、今年の2月までに4回の手術をした。
とても両親の面会に、行ける状態ではなかった。


夫は明日で、術後8週間の抗生剤の点滴が終わる。
その後は、飲み薬の処方になるため、明日から3泊4日の外泊をする。
退院が近いのかもしれない。退院をすると、1人おいて長時間の外出が出来なくなる。
そんな事情もあり、今日行って来た。

実はこの一年の間に、母の認知症が進み1人で行くのは、ちょっと自信がなかった。
そこで今日、3人でにぎやかに行って来た。

父の認知症の進行は、この10年ほど緩やかだが、母は急激に進行した。
表情がなくなり、自分から言葉を発しなくなった(/_;)

悲しい現実を目の当たりにして、胸が塞がった。
1人で行かなくてよかった・・・。

誰もが通る老いの道だが、その道は険しい。


長生きの家系痴呆もある家系   たかこ

↑の句は、我が家のことのようで、忘れられない一句である。

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両親のこと⑥

兄弟の恥を承知で書いています。

私は農家に生まれたものの、農業のことをほとんど知らない。
昔と違って農家と言えども自給自足の生活など出来ないので、現金収入を求めてみんな働きに行く。
兄も40歳すぎまでは仕事に行っていたが、病気をしてその後農業だけをしている。

両親の年金は国民年金なので受給額は少ない。
それでも父は約40年、母は少し早くからもらっているが30年は受給している。
掛けた年月はそう長くない。
40年も受給していればまとまった金額になる。
もっとも使っていなければの話・・・。

家族だから困っていれば助けるのは当たり前、ましてや死ぬまで面倒をみてもらうのだから。
そう思って両親は少ない年金から、かなりの金額を用立てたらしい。

用立てるというのは、後から返って来るはずなのに返ってこなかった。
そしてほぼ着の身着のままで、我が家に置き去りにされた。
その時母は父のと自分のと通帳を持って出てきた。
その残高を見てびっくりした・・・。
働いたお金も年金もほとんど家に入れていたので、ほとんど残っていない。

特養にずっと居られるのなら年金で賄えて、まだ少し残ると計算をしたが、二人とも高齢ゆえ案外早い時期に特養を出ることになるかも知れない。
そうなったらすぐ貯金が底をつくのは明白だった。
それから姉妹3人で両親のその時に備えて、積み立てをすることにした。
私はまだ年金を貰っていなかったが、姉たちは年金受給者なので、偶数月に通帳に振り込みをしてきた。
あまり負担にならない金額を3人で積み立ててきた。
父は半年で特養を退所し、この貯金の出番は割合早くやってきた。

兄が滅多に電話を寄越さないのに、長姉に電話をしてきた。
父のケアハウスの費用を3人で出すようにと言ってきた。どこまでバカなことを言うのだろう。
特養に入所が決まった時、「今後実家のこと両親のことに一切口出しをしない」という誓約書を書かせたことを忘れたのか?
口出しはさせないがお金は出させる・・・どこまで勝手なことをいうのだろう。
こんな兄がいることが情けない。
長姉も4人の親なんだから4人で払うのが筋ときっぱり言った。
そして「私たちは嫁いでから、ただの一度も親に無心をしていない」とも言った。

ない袖は振れぬのは解っているので、積み立ての中から父の口座に請求金額の4分の3を振り込んでいる。

「今月足りません」と私にメールをくれるのは孫の嫁さん。
嫌な役目だと思う。
これぐらいのこと兄夫婦が電話をかけてきても、よさそうなものなのに一切ない。
ほんとに何を考えているのやら・・・?

母は少し長く特養にいたのでまだ大丈夫のようだが、それも時間の問題だと思う。

親の年金を道楽息子が食い物にしていた、というニュースを耳にすることがあるが、まさか自分の身内でこんなことが起きるとは、思わなかった。


細かいことを挙げればきりがないが、一応両親シリーズはこれにてお終い<(_ _)>

両親のこと⑤

一人息子の兄は実家に久々に産まれた男児で、曾祖母がネコかわいがりをしたと言う。やんちゃ坊主の息子を父が叱ろうとすると、この曾祖母が父の前に立ちはだかって「〇〇を怒るなら叩くならこの私を叩いてくれ・・・」と言ったと聞く。
すべてがこんな感じで大事に、甘やかされて育ちろくな男にならなかった。
こんなろくでもない男になった責任の一端は、もちろん両親にもある。
しかしながら曾祖母の甘やかしの前には、両親もなす術がなかったのだろう。

兄が結婚した時は、私の祖父母が健在であった。もちろん同居である。
起きるのは遅かったが、食事の用意は手早く味付けもよく料理上手であった。
農家の嫁としても、よく働く働き者であった。みんなで大事にした。
そのころ祖父も両親も畑仕事の合間をぬって仕事に出ていた。
その祖父母は30数年前に亡くなった。

みんなが働きに出るからか、兄嫁は結婚後一度も働きに出ることはなかった。
言ってみれば世間知らずのお山の大将である。
よく働くがよく病気もした。

30年ぐらい前に家を建て替え、そのころから家の財布は嫁に渡った。
両親はずっと働きに出ていて、その収入のほとんどは家に入れた。

結婚後10年ぐらいは上手くネコをかぶっていたのだ。
目に見えて様子がおかしいと感じるようになったのは17~8年ぐらい前だったか・・・
母がいやに嫁に気を遣うのが見てとれた。
我々が顔を出すのがいけないのかと思うようになり、気にはなりつつ足が遠のいた。

今102歳の父は85歳ぐらいからゆるやかに認知症になっていった。畑仕事も出来なくなった。この頃から両親は辛い思いをしていたようだ。
置き去りにされる何年か前に、兄から電話がかかった。開口一番「もう年寄りの面倒はみない。引き取りに来い!」3人の姉妹の中で私だけが車に乗るからだろう。その手のことは末っ子の私にかかってきた。
妹ということもあっただろう。
その時は長姉がしばらく預かるつもりで、息子と迎えに行ったが結局父は来なかった。

母には妹が2人いる。大阪にいる叔母も大体の事情が解っており、姉である母に会って話がしたくても出来なかった。そこで12~3年前、田舎で母の姉妹夫婦、両親と娘3人と、女のいとこの計11人で、どこかで泊ろうという話になり田舎で宿を取った。
その時、兄嫁は自分を誘わないと言って文句を言った。
集まるメンバーをみれば、自分が参加できるものかどうか解ると思うのに怒った。
母の姉妹夫婦といとこの集まりなのに怒った。怒りを鎮めるべく遅ればせながら誘うと「今回は遠慮する」とのたもうた・・・。
もし誘って一緒に泊まっても居心地が悪かっただろう。

そしてこの時、一泊したら家に帰らず娘たちの家に行くよう言われて、我が家に両親を連れて帰ってきた。
それまで何度も我々娘は両親を旅行に誘ったが、兄夫婦に遠慮し「忙しい」を理由に実現しなかった。
実権を完全に握り、お山の大将になった嫁に兄も両親も手が出なかった。

母の遠慮解ってますかお義姉さん   タンポポ


特養に入所が決まった時、義姉は私たちに向かって「あんたたちは親を捨てて、家に恥をかかせた」とまたまた怒った。

留守の我が家の玄関先に、年寄りを置き去りにしたのは忘れたらしかった。


両親のこと④

重い内容が続きます(-_-;)



翌日から両親は、10日間の泊りのデイサービスからスタートした。
その間3回、両親、4人の子どもと嫁、孫、そして施設の所長、職員、市役所の担当者、ケアマネージャーと話し合いを持った。
これは我々身内だけでは話が出来ない、困ったケースということである。

嫁はみんなの前で「年寄りとはもう一緒に暮らせない」ときっぱり言い放った。
その横で「お前たちが勝手にしたこと、わしは知らん」とまだ言うアホな兄。

結局申請は兄がするということで、落着し特養に入った。
そして条件として兄から「両親のこと、実家のことに一切口出しをしない」旨の法的には何の効力もない誓約書を書かされた。

元々口出しはしていない。
母がまだ元気だった頃から『これから歳を取って寝たきりやそれに近い状態になることがあるかもしれない。そんな時、たまに帰ってくる娘たちは「ああしてやればよいのに、こうすれば・・・」ということを一切言わないように・・・』とくぎを刺されていた。
3人はそれを守って来た。
しかし、虐待、置き去り事件に関しては口をつぐんでいるわけにはいかなかった。

特養に入ってから、我々3人の姉妹は月に大体2度は面会に行くが、地元にいる兄夫婦は行かない。
その方が両親の心に波風が立たずいいだろう。

施設に入って3日目か4日目に、母に届けるものがあり特養に行った。出て来た母は数年来見たこともないほどの満面の笑顔で、開口一番「ここにいると天国じゃ」と言った。
朝はこちらから言う前にお早うと挨拶をしてくれる、毎日大勢で食事をする。こんなことで年寄りは喜ぶのである。
施設に入れて本当によかった。父の顔もずいぶんと優しくなった。

どの職員さんもにこやかでよくしてくれる。
実家にはなかった両親の笑顔が、この特養で戻った。感謝してもしきれない。

シニアナビを拝見していると、ヘルパーさんとして働いている方がたくさんおられる。毎日大変なお仕事なのに皆さん明るい。ありがたいことです。



ホームに親捨てて来たのじゃありませぬ   タンポポ
  

約半年で父は特養を出て、病院と併設のケアハウスを行き来する暮らしになったのは残念である。
そして母も4年後、大たい骨骨折をして入院し、その後リハビリ施設に入った。
特養には「3か月部屋を空けると退所」という規定があり母も退所した。
今は父と同じケアハウスにいる。

これ以上曲がる余地ない母の腰    タンポポ



両親が無事施設に入った時から、いずれ必要になるかもしれないと、3人で年金の支給月に積み立てを始めた。
両親の命の火が消えるまでは続けていこうと話している。

両親のこと③

重複する部分があります。

神様はよくみているもので、割合早い時期に兄嫁に罰が当たった。
鬼のような、否鬼そのものの兄夫婦に当たった罰とは・・・。
兄嫁に新たに癌が見つかり、脊椎狭窄症も発症したのだと言う。

恐らくもう農業は出来ぬ身体になるであろう兄嫁と、たいして仕事をしない兄。さてこれからどうなるのだろう?
願わくは2人にもう少し年齢を重ね、歳を取るしんどさを味わってもらわねばならない。
両親とも長い間毎日田圃へでていた。
農閑期には現金収入のある仕事にも行っていた。


話は両親が置き去りにされる前にさかのぼる。

この頃のことを思い出すと泣けてくる。

置き去りにされる2週間前、母は貧血で入院した、入院を勧められた母は、「嫁の許可をもらわないと自分では決められない」と言った。
一緒に行っていた私が電話で連絡をし、なんとか許可を得る。
約2週間の入院で退院となった。

退院の日「家に帰るのが辛い・・・」とおいおい泣いた。
自分の産まれた家に帰るのが辛いと、泣く母に私も姉も言葉がなかった。
なんとか気を紛らわせてやりたいと思い、市内の有名なしだれ梅を観に連れて行った。
しかしこれさえも嫁の気に入らなかった。
「退院の帰りに遊びに行くとは何ということだ」と怒った。

そして、頭が下を向くほど腰がまがっている母に「そんな姿になってもまだ入院して生きていたかったのか・・・」と暴言を吐いた嫁。
日常的にこんな暴言を浴びせられていたのである。

その後、67日間私の家で過ごすことになった。
そして②に続きます。


市役所からの入所決定の知らせを受け、それまでの10日間をまた我が家で過ごした。
兄夫婦も両親を施設に入れようと、市役所に行ったことがあったらしい。しかし手も目もある大家族では叶わず却下された。
まして所帯主の兄や義姉が行かずに息子の嫁が行った。
ここは兄夫婦が行かねば・・・。
その経緯があり、我々の相談から入所が決まったことに怒り狂う兄夫婦とその息子。
自分たちがしたことに気付かないのだ。

感謝されても叱られる理由はないはず。
大事にしていた親を、横から他人ばかりの中に放り込むのではないのだ。
邪険にされ口汚く怒られ続ける両親を、保護する目的で入所させるのだ。
なんとかこれから先、安全で安泰に過ごさせてやりたいのである。
市も家族からの暴力から救わねばと、驚くほどスピーディに入所を決定したのである。
こんな簡単なことが解っていない、自分たちのしたこともわかっていないのだ。

両親が施設に入ることに納得しない一家、おかしな話である。
日常的に暴力を振るっていたことは、父の身体にも心にも残っていた。姉の家に行った父は「○○(息子)が恐ろしい」と身を震わせた。

デイサービスでお風呂に入れてもらう時、腰の痣を見た係りの人が父に聞いてもハッキリせず、母に聞いたことがあると言う。
これは父がほんとに解らなかったのか、或いは息子から暴力を受けたことを恥じて隠したのかはわからなかった。
母には解っていたが、この時点ではまだ父が言わないことを、母も言わなかったのだ。

入所は4月20日、私の誕生日だった、前日「簡保の宿」で親子5人で泊った。父は忘れているが、母はよく覚えておりいい思い出になった。
母とお風呂に入っていた長姉が出てきて言った。「何と他人さんの親切なこと」脚腰の悪い母がお風呂に入って行くと、見ず知らずの方がわざわざ浴槽から出てきて、手を差し伸べてくれたと喜んだ。

他人だから出来るのかも知れない。毎日一緒に暮らしているとうっとうしいだけの邪魔者なのかも・・・。

私は結婚してからずっと、夫婦と子供だけの核家族であったため、親と一緒の生活はどんなものか解らない。

ただ両親も昔から年寄りだったわけではなく、みんなが順番に歳を取ることを忘れてはいけない。

今兄夫婦は68歳、両親のその年代の頃は、元気で仕事に行き帰ってくると田圃に行って仕事をしていた。

兄嫁はすっかり動けなくなって、農作業はもちろん車の運転も出来なくなった。
腰の曲がった母に非常な言葉を浴びせたが、自分もだんだん腰が曲がってきている。


恥を忍んで④に続けます。

両親のこと②

どなたが見ているかもわからないネットの世界で、全てをあからさまにするのには不安がある。
兄夫婦はPCを触らないが、甥は触る。だれかを通じて知る可能性もある。
両親が天寿を全うし、父が建てたお墓に無事入るまでは、兄夫婦や甥に知られるとまたひと悶着が起きるのは必至、でもここでの私を知っていただくには高齢の両親のことも、知っていただきたいと思う。

外部のブログに数年前アップしたことがあるので、お読みになった方があるかもしれない。

両親は8年前の2月の26日、誰もいない私の家の玄関に置き去りにされた。実家からは何の連絡も前触れもなしに、荷物のように置き去りにされた。

宅配便でも、留守伝票を入れて再配達をするというのに置き去りにしたのは、可愛がってもらった孫(兄の長男)である。
認知症の父と足腰の悪い母を置き去りにすればどうなるか、考えが及ばなかったのだろうか? 
まだその時の父はしっかりした足取りでよく歩いていた。

2月の末日まだまだ寒い日であった。
私が半年に一回の股関節の外来から帰ってきたのは6時を過ぎていた。、エレベーターを降りて目を疑った。
田舎にいるはずの両親がいたのだ???何で?どうして・・・?

家に入ってヒーターを点けてヒーターの前に両親を坐らせ、顛末をきいた。
腹が立つやら情けないやら。こんな仕打ちが許される筈がない。
姉妹3人で話し合って、母を私が大阪の長姉が父の面倒を、落ち着くまでみることにした。
ほぼ着の身着のままで冬の寒い中、娘の家の玄関に置き去りにされた母の悔しさ情けなさを知る由もないのか、実家からは母がいた約2カ月の間、一本の電話も寄こさなかった。

今まで私たちには話さなかった、兄夫婦による 数々の暴言と暴力を母の口から聞いた。
こんな酷い仕打ちに耐えてきたのは知らなかった。このころの母は記憶が鮮明でその鮮明すぎる記憶力さえ、兄夫婦の気に入らなかったのである。
食事は一緒のテーブルに着けず、両親だけ後からだった。
毎朝「お早うさん」の挨拶に応えてくれるのは、孫の嫁さんとひ孫だけで、兄夫婦も孫も知らん顔・・・・。
こんな状態の実家に我々は電話をかけるのも躊躇した。

この年の夏、我が家では次女が第一子を出産する予定であり、出産後はしばらく我が家に身を寄せることになっていた。
娘が来るまでは面倒をみるつもりで、近くのデイサービスに行く手続きをしていた。ところが母は、「デイサービスなら今まで行っていた田舎で行く」と言うので3人の姉妹で相談し、約2か月後神戸の姉と一緒に、取り敢えず母だけを連れて帰った。

車から降り庭に入ると兄がいた。じろりと睨んだ口から「帰ってきてもいいとは誰も言ってない!!」と信じられない言葉を聞いた。
そして家に入ろうとする母を叱責した。

それでも兄嫁が帰ってくればなんとかなるだろうと、気がかりながら実家を後にした。
悔しかった、情けなかった。
この日は何とかなっても、産まれた家のどこにも母にも父にも居場所のないことは判った。

その足で市役所に行き、両親のことを相談したのだった。

私も姉も、年寄りと言えど人権があり、あの兄の言葉や、荷物のように置き去りにされるなど、人権を無視するのも甚だしいと思った。
市役所の福祉課の方が詳しく真剣に、我々の訴えを聞いてくれた。そして市役所の決定は、我々姉妹がビックリするほどスピーディだった。「老人虐待」と取ってくれたのだ。
色々考えれば老人虐待そのものなのである。そして早速特養の入所が認められたのだった。
決定の連絡が入ったのは、市役所に相談にいって4日目だった。

決定したことでまた一波乱があったが、また続きは後日書くことにする。



やはりこの時のことを思い出すと、両親の悔しさと嫁いだ我々の無力さで涙が出てくる。

両親のこと①

シニアナビに以前アップしたものを、私の覚書として同じ日付でこちらに引っ越しました。
①~⑥までありますので、順次引っ越します。

施設でお世話になっている、両親のことを書いてみたいと思います。
両親は田舎で農業をしていました。
母には妹が3人と弟が一人ありましたが、弟と妹一人は子供のころ亡くなりました。
勝手な想像ですが、母が結婚したころは戦争中で、健康な男性はみんな戦争に行っていたのでしょう。
弟が亡くなったことで、父を夫として迎えました。
もう70年少し前のことです。
父は若いころ少し体が弱くて、徴兵検査に受からなかったと聞いています。
二人の間には娘が3人と息子が一人授かりました。
長女、次女、長男、三女(私)の4人です。
1人授かった息子は、曾祖母の可愛がりようが尋常ではなく、わがままいっぱいの男になりました。
曾祖母は私が幼稚園の時に86歳で亡くなり、その後、両親、祖父母、私たち4人で暮らしていました。

昭和43年に兄も結婚をしました。
わがままな息子に来てくれたお嫁さんに、姑の苦労をしていない母は姑の苦労を、させないようにと気を遣っていました。
ハネムーンから帰った嫁さんに「若いときはいくら寝ても眠いものだから、早く起きなくていいよ」と言いました。
その言葉通り、母より早く起きることはなかったようです。
兄夫婦にも子供が二人授かりました。
その子供たちが幼稚園に行く前に祖父母は亡くなりました。
その後も、表向きは仲良く暮らしているようにみえていました。
その子たちも成長しそれぞれに家族が出来、大阪に出ていた長男夫婦が田舎で働くため子供を連れてUターンしてきました。また8人の大家族になりました。
12~3年前のことです。

父はその頃すでに認知症の症状が出ていました。
段々家族の関係がギクシャクしてきました。
8年前のある日、母が貧血で入院したと連絡があり、二人の姉と一緒に病院へ行きました。
その時の母の嬉しそうな顔が今も忘れられません。そして退院の日、姉と私が迎えに行きました。
すると母は「家に帰るのが辛い・・・」と泣きました。
自分が生まれて80年以上いる家に帰るのが辛い・・・姉と二人でどうしたものか、何があったのか解らぬまま、暗い気持ちで退院の手続きをしました。
そこで近所のお婆さんと会ったので、一緒に食事をしてお婆さんを家まで送り、母を実家へ連れて帰りました。
それから2週間後、何の連絡もなく留守宅の我が家の玄関に、両親が置き去りにされるという大事件が起きました。

宅配便でも留守なら再配達をする時代なのにです(-_-メ)

両親の面会

長姉と淡路島へ行ってきた。

両親とも変わらずということで良しとする。
ただ母は今の施設から、よその施設に移らねばならない、それは実家のほうで手続きをしているとのことである。
なぜ移らねばならないのかは、連絡がないので我々姉妹には解らない。
移らねばならないと聞いたのは、実家の甥の嫁さんからで、実家と我々姉妹との連絡役を務めてくれている。
何度も書いているが、この嫁さんだけが実家から面会に来てくれる。
いつ移るようになるかも解らないが、今度は父のいる施設になるそうである。
フロアは違うだろうが、こちらから面会に行く我々には、そのほうがありがたい。
で行く私は離れていても両方行けるが、交通の便の悪い田舎ではХで行く姉たちはどちらか一方しか行けない。


淡路島は玉ねぎの産地である。
今年はこちらのスーパーにあまり出ていないので、今日は農協で新玉ねぎを買って帰ろうと思い農協で、5キロ入りの玉ねぎを買って帰って来た。
お天気のせいで、今年は玉ねぎが少ないのだそうだ。
淡路島の玉ねぎは、柔らかくて甘くてとてもおいしい。
ふるさと自慢~

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帰りはここでお楽しみのおいしいジェラートをいただきました~????

私はリンゴと黒豆きなこ、姉はりんごと抹茶、あっさりとしていておいしい~????

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本日の走行距離は297,1キロ。

最近淡路へ行くことがめっきり減り、年間走行距離が7000キロに満たない。
両親が施設に入った5年前からは9,000~12,000キロ走っていた。
毎週行っていたこともあったし・・・。

自動車保険を通販保険のS損保にしているが、来年はかなり安くなる?って喜んでいてはダメだなぁ、両親に顔を見せに行かなきゃ・・・。
この顔でも親は喜んでくれるのだから。
しかし父は最近娘の名前が出てこなくなってきた・・・。
忘れただって?顔はわかるのでまあいいか、100歳なんだから仕方がない。


両親の面会に・・・

今日は約1年ぶりに3人姉妹一緒に面会に行ってきました。

先日母は父のいるケアハウスに移動しました。
父は4階母は2階・・・。費用の安い施設ですので、夫婦同じ部屋にはなりません。
もっとも同じ部屋にいても、お互いに面倒をみることはもう出来ません。

6年前の2月22日、誰もいない我が家の玄関先に置き去りにされた、高齢の両親にとってこの6年の間、色々ありました。
もちろん娘である私たち3人にも、色々ありました。

環境の変化でだんだん認知症が進んだ母、しっかり歩いていた父は何度目かの誤嚥性肺炎で、臥せったあと全く歩けなくなりました。
認知症も緩やかに進んでいます。

介護のランクは父と母で違います。父のいる4階は、エレベーターの鍵を職員さんに開錠してもらわねければ乗り込めません。それだけ重症の入所者が多いということですね。
母のいる2階は自由に乗り込むことが出来ます。
母は父のいる4階へは毎日上がっているようです。
自分のいるフロアーと、父のいるフロアーが解っているのは、ちょっと意外でした。
刺激がないので惚けるといいます。確かに今より認知症が進むのは、容易に推測できます。

可愛そうですが仕方ありません。
両親は元気な時はいいように使われ、農作業の合間に現金収入を求めて仕事に行き、少しのお給料を得ていました。
でも仕事が出来なくなって、生まれた家を出された母と、婿養子に入って60年も住んだ家を、着の身着のまま出された父は、他に行くところがありません。

大阪の姉には知的障害の息子が、神戸の姉は息子夫婦とさほど広くはない家での同居、そして私も今は夫の病気と、自分のことでいっぱいです。
家を出された直後の60日余りは我が家で母を、大阪の姉が父を預かっていました。

60日余り我が家で過ごした母が家に戻った時、兄が母に向って吐いた言葉は、今後も忘れることはないし、留守の我が家に老いた両親を置き去りにした、甥の行為も忘れることはありません。また許されるものではありません。
そして何かにつけて悪態をついた兄嫁のことも・・・。

こんな息子と嫁にした両親にも、責任の一端はあるでしょう。
でも心の温もりは親がどうとか、人がどうとかの問題ではないでしょう。
自分たちにも子供があるのです、将来自分に降りかかってくると、思わなければならないと思います。

今実家からは、両親のことで色々世話をしてくれるのは甥の嫁さんだけです。
今回も施設から施設の移動もお世話になりました。
それには、母も私たち姉妹も感謝しています。

「年寄りとはもう一緒に住めない」と長寿福祉課の人やケアマネージャーさんの前でハッキリ言った兄嫁は、2年ぐらい前から家事も車の運転も、もちろん農作業も出来ない体になっています。
家を出された時の母より何も出来ません。

舅姑と同居をしたことのない私に、偉そうなことは言えませんが、それでも若い時から散々世話になった両親に対する、言葉や態度ではないと思います。
あの時のことを思い出すと、悔しくて仕方がありません。

世間では施設入所の老人に対する虐待がよく報道されますが、母は今回で3か所目の施設ですが、どこの施設でもそんな危惧を抱いたことはありません。
本当によくしていただいています。
今日、母に「ここはどう?」と姉が聞くと「快適・・・?」と答えました。

6年前の老人ホームに入所した時も、面会にいくと「ここに居ったら天国や・・・」と言った母の笑顔が忘れられません。
大人が6人子供が2人の大家族の中で、朝の挨拶はこの孫の嫁さんとひ孫だけでした。
大家族の中の孤独は辛いものだったのです。それがこの言葉に込められていました。

施設に入ったことで、いつでも誰に遠慮することなく、両親の顔を見に行けるのは私たち3人にとっては嬉しいことです。
父と母が初めは同じ老人ホームでしたが、別の施設に移った頃は毎週行っていました。

月に一度、安心を買うように面会に行きたいと思うのですが、なかなか行けないのが現状です。
でも今度は同じ施設なのでХで行く姉たちも行き易くなりました。



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今日の《明石海峡大橋》


寒い一日でした

そうはいっても日本海側の雪がふっている地域に比べれば、過ごしやすいのでしょう。

エレべーターを降りたところにある梅が、まだ咲きそうにありません。
年毎に寒くなっていると感じます。年齢のせいではないと思います・・・きっと?


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  《↑は昨日の淡路サービスエリアの観覧車》はいピンボケです(^_^;)

今日も青空が広がっていましたが、冷たい風が強かったです。
冬は洗濯物が乾かなくて困ります。乾いていても冷たい?取りこんだらヒーターの前の室内物干しに掛けて、温めるというか乾かしておきます。


昨日父のところで、俯いて何度も廊下を歩いている方を見かけました。
父と私たちが座っているところは、陽が当たってとても暖かくていい気持でした。
そこへその男性がきて座り話しかけてきます。胸にT田と書いた布を縫いつけてあります。

何年も認知症の姑と同居していた姉が、話しかけました。
「Tさんはお家はどこですか?」「尾崎・・・」「じゃあ遠いですね」「遠いか近いか儂には解らん・・・」「何歳ですか?」「62だと思う」「何年生まれ?」「大正13年」どうやら30年近く時計が止まっているようです。

父ももう自分の年齢はわかりません。でも誕生日は明治44年・・・と言えます。
母は自分の歳は解っていますが、父の歳はこの2~3年毎回100歳だと言います。
高齢者を目の前にすると色々なことがあります。
そして色々考えさせられます。

両親の年齢まで生きるとは思っていませんが(生きていたら怖いです)10年先の自分はどうしているか予測がつきません。
団塊の世代の私の年代は、間違いなく世の中のお荷物になっていると思います。


2か月ぶりの面会

前回、両親の面会に行ったのは、11月21日でした。
10月9日に救急車で運ばれ、24日間の病院暮らしから解放された後で、また20日後に入院し病院でお正月を迎える羽目になると、は思ってもいなかった時です。

気にはなりながら、やはり夫が入院中では、両親の面会は二人の姉に任せざるを得ませんでした。

大阪の姉と今日の約束をしたのですが、昨夜夫がまた37度少々の熱があると言うので、もしかしたら今日はいけないかなと思っていました。
今朝目覚めた私の第一声は「熱は?」でした。
もちろん夕べ病院に行こうと言ったのですが、「解熱剤があるから大丈夫・・・」と言う夫に「どこが大丈夫なんやねん?ä?」と、かなり腹を立てたのでした。

っでこの第一声だったのです。
熱は本当に下がっており、先に起きてゴミ出しをし?を沸かして、普段通り自分で準備して食べていました。

これなら大丈夫と出かけて来たのです。
姉をJRの駅で拾って高速に乗りました。気持ちよくスイスイ走ることが出来ました。

淡路島の南の端まで走って、いつもの水産会社でちりめんじゃこを買い、それから父のところ母のところ、引き返して海苔を買って帰ってきました。

父はプリンを差し出すと、すごい速さで美味しそうに食べました。
お世話になっているフロアでは、目の前に食べ物を置いても食べ物だと認識できる方は、ほとんどいません。
そんな中で自分でスプーンを持って、食べることが出来る101歳の父は、すごいと思います。
ほとんど食べて手が止まったので、もう要らないのかとカップを取ろうとすると、グイッと引き寄せました?
そして大きなプリンをきれいに完食しました。本当にきれいに・・・。
お茶までも、とろみ食の父に食べさせてやれるのは、プリンぐらいしかありません。

神戸の姉が21日に行った時「姉ちゃんは元気か?」と訊いたと言ってましたので、「これは誰?」と訊くと「〇美」とちゃんと解っていました。
姉には知的障害の息子があり、いつも気にかけていました。
認知症になってもやはり親ですね。姉のことははっきり解っています。
そこで「私は?」と訊くと「〇子」と言います。〇子は神戸の姉・・・別にいいけど~?「私のことは忘れて・・・」なぁんて目くじらを立てることではないし。
当たらずとも遠からじですしね。何たって101歳ですから。


  
母のところへ行くと、食事をするフロアにはいなくて部屋を覗いてもいません。
お手洗いのようです。
大腿骨骨折以来車いすを手放せない母です。お手洗いに行くと時間がかかります。
もともと腰が90度以上曲がっているので、衣類の上げ下げに苦労します。それでも両手が使えればいいのですが、片手は掴まらなくては立っていられません。お腹やお尻に引っ掛かった衣類は片手で上げるのはかなり困難で、いつも半分ぐらいしか上がっていません?

 *腰曲がった母に楕円の傘が要る     タンポポ

20分ぐらい待ってやっと出てきました。
毎日新聞を読んでいますが、メガネをすぐ失くしてしまいます。
最近は100均のメガネを買っていきます。それで十分ことが足りているようです。

あと1か月で、両親が我が家の玄関先に置き去りにされて、6年になります。
実の息子は面会にも行きませんが、父の甥(って言っても80歳を超えています(*^_^*))が面会に来てくれます。
そしてお小遣いをいただきます、ありがたいことです。

同じ県内で今は橋が架かり、ちょっとそこまでという感じですが、やはり一日仕事になります。
でも両親がスタッフの皆さんのお蔭で、心穏やかに暮らしているのを見ると、安心して帰ってくることが出来ます。

今私は夫のこともあり、以前のようには行くことが出来ませんが、久しぶりに様子をみて、心から安心をして帰ってきました。

本日の走行距離は223キロでした。

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明石海峡大橋をバックにハイチーズ


2か月ぶりの田舎

夫の体調が変わらずだったので、丁度2か月ぶりに両親の面会に行きました。
夫はお留守番です。

毎日のように湾岸線を走っていたとは言え、久しぶりに走る3号神戸線は、ちょっと緊張しました。

行きは割合スイスイ走ることが出来ましたが、帰りは柳原→深江間13キロの渋滞はまいりました?

持って帰って洗濯をした母のコート、なぜかパジャマのパンツがないと言うので代わりになるパンツ等を持っていきました。
腰が90度以上曲がっている母の衣類を買うのは大変です。パンツは股上の長いものが必要です。
それでも両手を使ってあげることが出来ないので、いつも途中で止まっています。
だから上に着る丈の長いものが必需品です。
今は丈の長いものがありますが、袖の短いチュニックは夏物と思っていますし、パジャマも上下同じ柄じゃないと、パジャマだと思っていません。

認知症が進んでいるので、こちらの言っていることはすぐ忘れます。
もちろん自分が言ったことも忘れて、何度も同じことを言います。

昔のことは鮮明に覚えていて、40年近く前に亡くなった、自分の両親の最後のことを、何度も繰り返し話します?
5年前aozora@の家の玄関に、置き去りにされた時の母とは、別人になりました。
父は15年ぐらい前から認知症になっていましたが、この5年間で歩けなくなってしまいましたが、そう変わりはありません。

何度か書いていますが、間違いなく長生きのDNAを持っていると思います。
怖いことです。

色々考えながらの帰り、お気に入りの↓で?をいただいて帰ってきました。

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セットメニューにするとミニのジェラートが付いてきます。(半分食べた後の画像ですä?
今日のケーキはモンブラン、ジェラートはリンゴにしました。
おいしかったです、満足満足?

本日の走行距離は220キロでした。


淡路へ

両親の面会もだんだん間遠くなってきています。それでも月に1度は行くように心がけてはいます。
父がホームから病院へ移ってからの一年間は、神戸の姉と毎週行っていました。
さすがにしんどくなってきたのと、諸々の事情で月に2回になり、今は1回になっています。

来週の水曜日には、ちびっこ台風が上陸しますので、今週中に行こうと思っていました。
朝カンカン照りではないのでヨシ!と一人で出かけました。

平日とは言いながら、夏休みで車は多かったです。
それでも往路はほとんど停まることもなく、気持ちよく走りました。

まず父がお世話になっている施設へ行きました。
もう10日ほどで101歳になる父は、ベッドに横になっていました。
寝ているのではないので声をかけましたが、反応はありません。夢うつつという感じでしょうか・・・。
言葉を交わすことなく施設を後にしました。淋しいものです。


母のところへ行くと、お手洗いの前で順番を待っていました。
何だか今日は元気がないように見えました。
今月19日で90歳になりました。両親ともに長寿です。
これで認知症がなければいいのですが、母の認知症も進んでいます。
同じことを何度も言います?
何度も同じことを聞いて施設を後にしました。

今日は川柳の仲間から玉ねぎや海苔を頼まれていたので、農協へよって5キロの箱を2個かいました。
新玉ねぎは800円だったのに今日は1100円でした。今売っているのは日持ちがするのでいいだろうと、OKの確認をせず買ってきました。
それから大江海苔も買って高速に乗りました。


SAで頼まれた買い物&??
渋滞情報をみると13キロの渋滞・・・?テンション下がるなあ

大橋を渡ってトンネルを走っていると、前にゆっくり走る軽自動車があります。高齢者マークを付けています。
トンネルを出るとすぐ左へ進路を取りたい私は、追い越しもせずついて走りましたが、その車は分岐手前で左へいったり元に戻ったりで直進なのか、どうか??追い越してから確認すると止まっています?ä
料金所が目の前にせまったので見えませんでしたが、怖いですねえ。

阪神高速を1時間以上かけて走って、やっとインターを降りました。
スーパーの駐車場で友人にをし玉ねぎを渡して帰ってきました。

約9時間の日帰り面会の1日でした。

前にも一度載せてますが・・・利用するインターを降りたところにある《甍公園》の淡路瓦のモニュメント(青海波・せいかいは)です。

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遠くからしか撮れなくて暗いですね(^_^;)

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↑は淡路瓦のHPからお借りしました。

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↑はなんでしょう?
正解は淡路瓦をふんだんに使ったお手洗いです

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↑は《玉ねぎタワー》上の円いブ部分は電光表示になっています。

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タワーの根元の部分です、玉ねぎの形ですね。

先日、地元の業者が中国産の玉ねぎを、淡路産と偽って販売し逮捕されました。
淡路ブランドに生産農家はプライドを持っています、許せないことですね。

知人が商船三井に勤務している頃、中国からたくさん玉ねぎが入って来て、どこに行くのか後思ったら淡島へ行っていたといいます。
この方が退職して15年以上になりますから、偽装はずいぶん昔からあったのでしょう。





面会

1月に行って以来行けなくて、気になっていた両親の面会に行って来ました。
姉達も色々用があり、今日は久しぶりに一人で行きました。

暖かでいいお天気で気持ちよくドライブしました。
一人だとノンストップで行こうと家を出ましたが、あまりにもいいお天気なので、明石大橋を眺めたくて淡路SAに入りました。

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SAを出て走っていると、昨日の雪が所々に残っていました。

初めに父がお世話になっている施設へ

ケアハウスと病院を行ったり来たりしている父は、今どこにいるのか病院の受付で訊ねました。
また病院に戻っているとのことで、3階に上がって行くと、ホールに毛糸の帽子をかぶった父がいました。
赤ちゃんのオーバーオールのような物を着ています。
近くまで行くと「おう!」と手を挙げます。
忘れられてはいません?
でも「私は誰」ときくと「N子か」と神戸の姉の名前を言います。
う~~ん残念、まあいいか当たらずとも遠からじ・・・
ハズレと言うと「K代か?」名前を覚えているだけ良しとしましょう。
何たって100才です、欲張ってはいけません。
元気でよく歩いていた父も、何度も起こす肺炎で寝込む度に脚が弱って歩けなくなりました。
でも本人には自覚がありません。
コーヒーを飲みに行こう、と立ち上がるそぶりを見せます。
車椅子に固定しているベルトを外そうとします。
自分で外せないと解かると「外してくれ」と言います。
歩けないから外すと危ないと言うと「そうか歩けないのか」とじっと脚をみます?

体重測定をしました、車いすのまま乗って57キロ、車いすの重さは18キロ、39キロしかありません。元々痩せていましたが40キロをわっているとは・・・
羨ましいような、いえいえ・・・?あまりの軽さに測定をしていた介護師さんが「軽っ!?ä

それから母のところへ
いつもいるホールへ行くと閉まっています?
部屋に上がって行くといません、部屋を変わったかなとずっと見て歩きました。
母の名札が掛った部屋がありません

通りがかった介護師さんに訊くと、下痢をしていたのでノロウイルスを懸念して部屋を移動しているとのことです。
ノロウイルスの疑いが晴れて、今日から面会も出来るようになったということで、部屋へ行きました。
窓の方を向いた母がいました。隔離状態なので新聞を読みに出ることもできず、人と話も出来ず退屈極まりないようです。

若い人でも危険なノロウイルス、ましてや高齢者の施設で発症すると大変です。致し方のない処置です。

母と話をすると新しい話題があるはずもなく「誰それさんが死んだ云々・・・」どなたかが亡くなったという同じ話ばかりです。
それもさっき聞いた話ばかり、しっかりしているようでも認知症は否定できません。

私の年齢で両親が健在なのは珍しいです、感謝しないといけません。
でも淋しいものです。

高齢者施設での虐待事件がつい最近ありましたが、両親がお世話になっている施設では、大丈夫だと信じています。
そう信じさせてくれるものが伝わってきます。
本当にありがたいと思います。


両親が我が家の玄関に置き去りにされてから丸5年が経ちました。
今2人とも穏やかに毎日が暮れています。
今日も安心して帰路についたのでした・・・感謝?

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母のリハビリ

母シリーズで

リハビリ初日は平行棒を3往復したのだそうな?そして言ったこと、「昔はあんなに歩いとったのに3回めは脚が前に出なかった・・・・」昔?いつのことだろう?
そしてその平行棒の長さはどのくらいあったのだろう?今度行った時みて来よう。2本分繋げてあっても10メートルはないだろう、1本なら3メートルあるかないかだと思う。
骨折するまでの母の歩きをみていると、手押し車なしで歩いたことさえビックリなのだ。

両親がホームに入った頃、父は元気で歩きまわっていた。どこにいるかをみておかないと、部屋が解からず誰の部屋でも入ってしまうので、母はいつも後を追っていた。
その前の60数日間、我が家にいた時も、歩け歩けと毎日散歩をさせていた。そのころはかなり歩けていた。しかし父が病院へ移ってから自主的に散歩をしなくなった。口やかましく歩くようにいうと「食堂まで1日3往復はする、これは結構長い・・・」と言った。
しかしこの食堂までの距離などたかがしれている。4年前に比べると、目に見えて歩けなくなっていた。父が病院へ移ってもう3年が過ぎた。手すりだけでは歩けなくなっているのだ。
一度座ると立ち上がるのにとても時間がかかる。

そんな母の歩けていた昔とは、いつの頃の昔か訊いた。学校へ行っていたころだと言う・・・当たり前だよね。

私だってそのころならどれだけでも歩けた。

時間の感覚、今の自分の状態などが把握出来ていないのである。

昨日自分のリハビリに行った。ご多分にもれず高齢者が多い。そんな中で、座らせるのも立たせるのも一苦労のお爺ちゃんがいた。立たせてみるとズボンがズルッと太腿のあたりまで落ちてきて歩けない。「ベルトは?」と聞いても解からない?何度上げてもずってくる。一旦座らせてリハビリ師さんがベルト捜しをする。
ここでのいろんな出来事をみていると、両親をみているようであり、高齢者の相手はほんとに大変だとだと思う。
看護師さんやリハビリ師さんに感謝感謝である。

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   《ヒマラヤボタン》


両親の面会

今日は映画の約束があったので、出かける前に急いでUPしようとしてワンクリックで全部消えてしまいました??

昨日は長姉と一緒に両親の面会に行きました。いつも渋滞する阪神高速もいつになくスイスイ気持ちよく走りました。

阪神高速が距離別料金になって初めての3号神戸線の芦屋ゲートを通ると「900円です」?ナヌそれは高い?柳原で割戻料金400円だか500円だかと言いました。
正確な料金はETCの請求書が届かないと解かりません。
昨日は風もなく暖かで淡路SAから何度となく見ている明石海峡大橋も、こんなに綺麗に見えることはあまりないと思うほど綺麗に見えました。

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西淡三原ICを出る時、料金は今までより高いと思ったのは勘違いでありますように

神戸の姉も一緒なら、黒岩水仙郷へ足を伸ばそうと思っていたのですが、また次の機会に・・・って水仙は終わってしまいますね。
去年行った水仙の丘もきれいだったので、そちらでもいいねと長姉と話しました。

高速をでて先ずは大江のりを買いに行きました。
この大江のり段々人気が出てきて、テレビでもよく話題に上がるようになりました。
楽天では460円から580円ですが、直売所では400円で買えるのです。
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友人に頼まれた5本と自宅用、姉も買いました。

それから干しタコとチリメンジャコを買うため、鳴門観潮船のでる福良まで行き品物をgetしました。
 

それから父のいる施設へ向かいました。
100歳の父は病院と病院併設のケアハウスを行ったり来たりしています。
前の面会の時は、ケアハウスにいたのでケアハウスの受付で訊ねると、○○さん今は病院に移っていますと

のことで病院に行きました。EVを降りたホールではたくさんの老人がいます。
例外なく女性が多いです。
弱っているかなと思いましたが元気です。
介護師さんがもうだいぶ良くなったので、間もなくケアハウスに戻りますとのこと・・・
本当によく看て下さいます。ありがたいです。感謝感謝です。

そして母のいる施設へ
2階へあがって行くとこちらも8割ぐらい女性です。
私たちを見つけた母が手をあげています、車イスに乗って母が出てきました。
新しい話題は殆どありませんが、待ちかねていたように喋ります?

個室ではありませんが同室の方がいい人でよく話をすること、朝目が覚めると、顔を拭く温かいタオルが配られる、入れ歯を持って来てくれる、お茶を入れてくれる、食事がくばられる等々・・・もう何度も聞いた話です。

そういうことに母自身感謝をしているのです。実家にいて孤独だった母には、とてもありがたいのです。
本当にこちらもよく看て下さいます。

施設にいることで安心しています。時々顔を見に行って、安心して帰ってきます。
100歳と89歳の両親に、残された時間はそう永くはないだろうと思います。

これからも両親の顔を見に行くための、淡路島への日帰りは続きます。


夕暮れの上り線淡路SAからみた明石海峡大橋 

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昨日は

約70日ぶりに両親の面会に行きました。

昨日で夫が倒れて2カ月になり、少しずつですが快復傾向にあります。
私の気持ちにも少し余裕が出来て来ました。
そこで久しぶりに、3姉妹での淡路島行きとなりました。
いつものように長姉をJR西宮で拾い、阪神高速3号神戸線を走りました。珍しく渋滞もなくスイスイと走りました。
こんなことはとても珍しい3号神戸線です?

次姉との待ち合わせも、いつも通り淡路SAです。
そこで姉が買って来ていたお弁当で、早めの昼食にしました。
12月とは思えない暖かさで風もなく、目の前の大橋を眺めながらの昼食は、とても気持ちが良く美味しかったです。

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お弁当を食べて出発です。左右に錦の山をみながら約1時間のドライブです。今年は暖かいせいか、全体にちょっと渋めの紅葉です。

先に母のところへ行きました。
3人揃って顔をみせるととても喜びました。
少し認知症のある母が、今までに何度もお会いしている介護師さんに「娘です?」と紹介します。
これは母にとってかなり誇らしいことなのです。
今までも何度か書きましたが、施設に入所した老人を訪ねる人は少ないのです。
現に直ぐ近くに住む、長男夫婦は行きません。

母の色々な話し(今まで何度か聞いたはなしです??)を聞き、荷物の整理をし「また来るね」と施設を後にしました。


それから父のいる施設へ向かいます。母を連れて行ってやりたいのですが、今の車は、大人3人と車いすは載りません。同じ施設に入れるといいのですが・・・

父も3人の娘の顔を見ると喜びました。
先月長姉が行った時は体調が悪そうだったと、聞いていたのですが、昨日はご機嫌でした。

もう何年も煙草を吸っていませんが、ポケットを探り「煙草をきらした」と言います。
今言ったことを忘れるのに、煙草は忘れないのです。

前を向いて喋っていると、横に坐った次姉が見えません。「N子はきていないのか?」と言います。N姉がここにいるよと肩を叩くと「おお?ä
馬のように横に目があったらいいのにねと、3人で笑いました。
父は色々質問して来ますが、耳の遠い父はほとんど聞き取れません。
会話は一方通行ですが、それでも喜んでいる父を見るのは嬉しいものです。

父が姉の歳を訊きましたので、答えたのですが聞こえません。
そこで紙に両親と4人の子どもの名前と年齢を書きました。
書いている時、長姉が「○一の名前も書きよ」といいました。
兄の名前を書くなど全然思いつきもしなかったのですが、さすが長女だと妙なところで感心しました。

○四郎100歳、○づ子89歳、○美69歳、紀○67歳、○一66歳1、○津○63歳、と書いた紙を見た父のビックリした様子が面白かったです、
もう長い間父の口から、兄の名前を聞くことがなかったのですが、長姉が兄の名前を指差して「誰?」と聞くとちゃんと覚えていました

認知症が進んでいるとはいえ誕生日を言えて、自分で食事が出来るのは、素晴らしい100歳だと思います。



両親の面会

2人の姉と昨日、両親の面会に行って来ました。
いつものようにそれぞれの場所で待ち合わせ淡路島を縦断します。
目的は両親の面会と買い物、そして、すえひろさんでジェラートを食べることでした。
どれがメインかは御想像におまかせ・・・

高速を降りて、買い物、父の面会、母の面会、ジェラートの順で回ることにしました。


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農協で「淡路玉ねぎ」福良の橋詰水産で「ちりめんじゃこ」なないろ館で「干したこ」を買って、父のいる病院へを走らせました。

大勢の方がホールにいましたが、父だけがまだ食事中でした。自力で食べられる父は、食欲がないこともあって、他の方が済んでも、ゆっくりと食べているようです。

先日の肺炎から、嚥下障害が重くなっているのでしょう。食事はすべてミキサーにかけたようなものでした。ご飯粒のないお粥にとろみがついています。お魚もミキサーにかけて成形したようなもの。デザートも・・・お茶もとろみをつけてあります。お魚もデザートも匂いはちゃんとありますが、美味しそうには見えません?でも、もうこういう物しか食べられないようです。
何分にも100歳です。100年も使えば色々なものが傷んで当たり前です。老衰とはこんなものなのですね。

いままでのように甘いお菓子を食べさせてやることもできません、これは面会する者には淋しいことです。
行く度に預けていたお菓子も返されました。
でも昨日の2時からまた老健に移りました。これは状態が良くなったということでしょうから、また少しずつ改善していくと信じています。

老健に移動する父と別れて、母のいる所へ

いつものところへあがり覗くと、こちらを向いて母がいました。娘3人が見えたようで、手を挙げています。
??に乗ってこちらへ出てきました。元気です。ただ同じことを何度も言います?こういう施設はナイフを持たせられません。家から梨をむいて行き皆で食べました。
何度も同じ話をしますが、元気です。
骨折するまでいたホームに戻る気でいます。
ホームに戻るには、老人車を押して歩けることが、最低条件なのです。
果して望みがかなうかどうか微妙です・・・?

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じゃ~ん《ジェラート》です。これはミルクとマロン。
300円でこのボリューム・・・あと口が良くてほんとに美味しいのですよ。
姉の黒豆きなこも美味しかったです????

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  《和三盆のロールケーキ》?????

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両親の面会

2人の姉と一緒に約1カ月振りに面会に行って来ました。
先に母のところへ行くと、いつものようにホールにいました。
8月3日に骨折の手術をした病院に、実家の孫の嫁さんMちゃんに、連れて行ってもらうと聞いていたので、まずその時の話から始まりました。ひ孫のS君と3人で病院に行ったとのこと。
その時Mちゃんが「今日はおじいちゃんの誕生日だからケーキを買ってきたので・・・」と父のいる病院にも連れて行って貰ったと嬉しそうに話してくれました。
誕生日の父に職員さんが写真を撮って飾って貰っていたこと、ケーキもたくさん食べたことなど話しました。

そして父の所へ行くと、今までいた部屋に父がいません。看護師さんに聞くと、また肺炎を起こし別棟の病院に移ったとのことでそちらに行きました。
ベッドで点滴をしていました。27日から病院に移動してだいぶ良くくなってきているとのことです。
今の食事はゼリーだということで、お饅頭を食べさせてはやれませんでした。

こうしてだんだんあちらに近付いて行くのでしょう、これが老衰なのでしょう。今年はこれで2回目の肺炎です。一段と痩せていました。
でもこうして施設にいるお陰で、3人とも安心して帰ってきました。



    一世紀生きた顔です。 
  とても優しい顔になりました。

今日はまず最初に友人からも頼まれた「大江のり」を買いに行きました。
姉達も車で行かないと買えないといっぱい買いました。

すえひろのジェラートを食べたいのですが、残念なことに一番よく行く火曜日は定休日なのです?


おめでとう100歳

父が8月3日に満100歳の誕生日を迎えた。元々身体は丈夫ではなかったが、一世紀生き抜いた?

長生きの家系痴呆もある家系    たかこ

10年あまり前からの認知症も少しずつ進行している。
それでも誕生日を問うと「明治44年8月3日」とちゃんと答えられる。
特養に入った4年前は脚がしっかりしていた。その当時、徘徊をし職員の手が回らない時は、睡眠薬を飲ませると言われていたが、母が後からついて回ることでそれは回避出来た。

病院へ移ってから毎年冬に肺炎を起こす。昨年のお正月を挟んで約2カ月肺炎で寝込んだ。
それきり歩けなくなり車いすの生活である。この時寝込んで以来おしめの生活になった。
それでも時々尿意は感じている。

この日はチビッ子台風上陸中であり、面会には行けなかった。前もって行けないのは解かっていた。
そこでよく聴いているABCラジオの番組にメールを出していた。
当日或いは他の日に読んでいただいたのかどうか解からないが、昨日郵便受けにabcラジオ局の封筒が入っており、中には小銭入れが入っていた。
メールを出しただけでは何も送っては来ないだろうと思うので、多分読んでいただいたのだろう。聴けなかったのはちょっと残念である。

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今abcラジオのこの番組の時間帯は、高校野球の放送中で番組は夏休み中である。


両親の面会

両親の面会に行ってきた。

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枚方の姉を西宮で拾い、神戸の姉を淡路SAで拾って3人で行って来た。
父も母も別段変ったことなく、過ごしているので安心している。
何分にも高齢の両親にとって平凡に暮らせていることは、一番の幸せであり我々も安心できる。
施設の介護師さんたちに、感謝してもし足りない思いで今日も帰って来た。

行きの高速の出口でETCレーンが工事のため閉まっていた。身障者割引を受けるため障害者手帳とETCカードとを一緒に見せる。現金を支払うことなく出られる。これを見せないと割引が出来ない。いつもバッグに入れているが、それでもETCに慣れてスルッと通過出来ないのは少々不便に感じる。
帰りは道順の関係で一つ先のインターから乗った。ここも工事中、田舎なものでETCと一般レーンは1カ所ずつしかないのでどなたでも通過できる一般レーンを開けているのだろう。

ブースの外におじさんが立っていて、通行券と注意書きを書いた紙を渡している。約3年半ぶりに見る通行券である。清算をするのは垂水の料金所、この料金所までETCカードは挿さなくていいのだろうか?などと考えながら走る

垂水の料金所でまた手帳とETCカード、そして通行券を見せて無事通過する。ここからはカードを搭載機に挿して走る。


以前田舎からの帰り、一か所ずつしかないレーンの一般レーンを通り抜けてしまったことがある何か変だと思いながらそのまま走った。一人だったのでゆっくりSAで休憩をした。その後垂水の料金所では当然ETCのバーが開かず?初めてETCレーンを通らなかったことに気付いたことがある
その時料金所にはすぐ淡路から「ETCを通らずに入った車がある」と連絡があったらしい。
あのインターを通った車が全て神戸大阪方面に走るわけではない。徳島方面や中国自動車道にも行ける。
私の車は人騒がせな「おたずねもの」になっていたのだ?ä
これが逆方向で芦屋の料金所を突っ走ったなら垂水で「御用!!」になっていたかも知れない。垂水ジャンクションの出口には高速機動隊が控えている。昨日も出口に機動隊員が立っていた。

 



両親の面会

手違いで消してしまった・・・??


二週間ぶりの面会に行ってきた。
朝洗濯ものを干している時、少し曇ってきたので天気予報通りにふりだすかな?と思いつつ約束をしていたので高速に乗った。
高速に乗ると間もなくポツリポツリ・・・
相変わらず渋滞の阪神高速を、チンタラチンタラ走る。結構雨足が強くなってくる。

待ち合わせのSAに着いた時にはかなり強く降っていた、「中止にすればよかったね」と姉が言った。
姉は日傘を持ってきたのにと言いSAで500円の傘を買った。

出発した時にはワイパーを一番強く回すほど降っており、高速をこんな強い雨の中を走るのは初めてだった。
50歳で免許を取った私の高速デビューは、少し雨の降る日の夜だった。
夫の実家の兄嫁さんの亡くなったときだから、もう9~10年になる。手のひらに汗をかきながら、車線変更もせずひたすら走ったのを思い出す。
あれから何度淡路島まで走っただろう?この4年間だけでも120回以上は走った。

両親ともそれぞれの施設で何とか暮らしている。願わくば両親が同じ場所で暮らせたらと思う。
母は元いたホームに戻れそうと言うが、何を根拠に言っているのか解からない、ただ何となくだと言う。
ただ何となくはあり得ない。自分の足で歩かねば特養には戻れない。
入所者の状態や費用を考えると特養に戻れたらいいと、我々も思うが恐らく無理だろう。

父は食が進まないようだ。ただ甘いものは食べられる。今日もどら焼きをペロッと食べた?おやつは預けてあるが、我々の前で食べるようには食べられないようで、賞味期限が切れてしまった。今日持って行ったのを預け、古いのを処分して来た。

娘の名前も顔もちゃんと解かるし、食事も自分で食べられる。これ以上のことを望むべくもない。
後20日で100歳になる。


先ほど自動車保険の継続申し込みをした。去年一年間の走行距離は8500kmあまり・・・夫は乗らないので全て私が走った距離である。
っでその距離のほとんどは淡路島への往復になる。っと言うことは高速料金も・・・恐ろしいので計算は止めよう?
60歳を超えた婆ちゃん結構走ってるねえ・・・?何年か前は12000km走ったこともあった。



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《わたる君と明石海峡大橋》

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《四国八十八ヵ所参りバスツアー御一行様》淡路SAにて


昨日の続き・・・

さてローカルな「淡路信用金庫」島外に支店は多くはないと思う。それが我が家から割合近い所にあって引っ越してきた当初びっくりした

母が先月までいたホームに、姑も入っていた。
実子である神戸の兄、夫、妹の3人で毎月わずかずつ送金していたのも、この信用金庫の口座宛だった。
特養の支払い口座がこの信用金庫なのだ。

両親が我が家の玄関に置き去りにされ、以来の出来事は前述のブログの通りである。そして市が老人虐待と受け止めスピーディな対応のお陰で、安心して日々の生活が出来るようになった両親であった。
しかし通帳の残高は、これから先のことを考えると心細い物であった。

そこで両親の先のことを考え3人で、年金支給月に積み立てを始めた。4年あまりで結構まとまったお金が出来た。
そんな時アホ兄から長姉に、父の通帳にお金がなくなったという電話があった。予想はしていたので驚きはしなかった。
通帳のコピー、口座番号、請求書或いは領収書のコピーを送るように姉が言ったが、そんなこともさっさとせず、待っているこちらがイライラした。
今週になってやっとそれらが姉に届いた。差出人は兄夫婦の息子の嫁さんMちゃんから・・・
せめて一言自分たちの言葉を添える気もなかったのか?

かねてよりこの嫁Mちゃんにはこちらから費用の4分の3を送金するからと言ってあった。それを電話で「我々3人で負担せよ」と言った。あとでMちゃんから兄嫁にもこの件は伝えてあると電話があった。

バカは死ぬまで治らないのだ両親は4人の親である。しかも我々娘3人は結婚後一度だって、親に援助を申し出たことなどない。
一方兄たちは若い時からずっと、親の脛をかじり続けてきたのだ。
そんなことがなければ父も母ももう少しお金を残せていたのだ。
長姉が、このことをいうと「お前たちが勝手に入れたから金が必要になった!・・・と怒って電話を切った。
あきれ果てて相手にも出来ない。

母を連れて帰った時「帰ってきてもいいとは誰も言ってない。家に入るな?ä?」といったのは誰か忘れたらしい。
役所の2階で「年寄りとはもう一緒に住めない」と言ったのは、あんたの嫁さんなのだ。それも忘れたのか?

しかも入所が決まってから「両親のことを含めて、今後一切実家に口出ししない」と我々3人に何の効力もない誓約書を書かせたのも忘れたのか?
口出しをさせずにお金だけ出せって、そんな虫のよいことがよく言えるものである。
あほらしくて口出しなどする気にもならない。

両親がホームに入って3~4日後必要な物を届けに行った時「ここにいたら天国じゃ」と言った時の笑顔を見せてやりたかった。
何年も兄夫婦も孫も、朝の挨拶を交わしもしない中で耐えていたのである。ひ孫とMちゃんだけが挨拶を交わしてくれていたのだ。

そんな状態に両親をおいて、その言い草はないだろう。
農家の長男はつらい立場にあるかも知れない。だからこそわれわれは実家にも親にも、迷惑を掛けない生き方をしてきた。
そして両親はこの家で一生を終えると信じ、長男夫婦に援助を続けてきたのだった。

そんなこんなで、暑さとの中で腸が煮えくりかえるが、取り敢えず4分の3を振り込んできた。

言いたいことは山ほどあるが、両親も不死身ではない。いつかは最期を迎える。
その時は母のためにも、産まれた家から葬儀を出してやりたい。今の時代恐らく会館での葬儀になるだろう。
それはとうぜんだし、異論はない。

父が元気な頃お墓を建てている、そのお墓に入れてやりたい。だから今言いたいことはいわない。
母の両親、祖父母、嫁ぐ前に逝った叔母、子どもの頃逝った、生きていれば家を継いでいたはずの伯父、そして両親、水入らずで祀ってやりたい。

公平な目でみれば、一人息子をこんな情けない男にしか育てられなかった、両親の責任は大きいとは思う。
しかし兄も間もなく66歳、成人してからの人生の方が倍も長い。立派な大人、イヤイヤ立派なジイさんである。地域にも家族にも責任の持てる男でなければ・・・?

子どもの頃死んだ伯父が成人していれば母の人生は大きく変わった・・・私達兄妹はこの世に存在しなかった・・・?

《アメリカンディエゴ》 

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↓の2枚↑とよく似ているけど不明、ご存じないですか?

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両親の面会


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 上り線のSAからみる《夕方の明石海峡大橋》


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 上り線のSAからみる《下り線のSA》


昨日は姉2人と一緒に田舎へ行ってきた。
長姉とはJR西宮で待ち合わせ、次姉とはいつものように淡路SAで待ち合わせた。
今の我々と兄夫婦の関係の中で、三人の姉妹があること、何となく都合をつけて三人が集まれることは幸せだと思う。
このことは、よく他の人からも言われる。最初はあまり思わなかったが、両親の一件があってからは、本当によかったと思うようになった。

母も老健にだいぶ慣れたようである。田圃の中にある施設で、朝目覚めるとベッドから見える山を見て、顔を洗い目の前に見える田圃を眺めるのだそうだ。
難点は同じ部屋の後の3人の方は話が出来る状態ではないので、部屋にいる間は本を読んでいるのだそうである。リハビリにいったり食堂に行くと昔の馴染の方もおられ話が出来る。

父のところへ行くとしばらくして「おしめの交換です」と介護の方が来られた。そして「交換後、車いすでホールへお連れします」と言われホールで待っていた。ほどなくして連れてきてくれた。父はまだ自分が歩けなくなっていることを理解できず、ベッドから立ち上がろうとして転ぶことがあるので、ベッドを外しマットを2枚並べてその上に蒲団を敷いている。そんな父を壁に凭れさせるのも、慣れない物には大仕事である。
それをおしめの交換をして、車いすにのせて来るのにそう時間がかからない手際のよさに、有難さが倍になる。
仕事と一口で片づけられるものではなく、ただただ有難い????
昨日も父はけっこうおやつを食べた?お饅頭とカステラを食べたが、まだ食べると言う。しかしお腹が痛くなっても困るので、他のおやつといっしょに預けた。
好きな物が食べられる元気が嬉しい。



面会と海産物の買い物

14日の朝、神戸の姉と淡路SAで待ち合わせて両親の面会に走る。
淡路へ行くと面会の外に、海産物や野菜を買って帰る楽しみがある。
母が4年間大変お世話になっていた特養は、海岸を抜けた高台にあった。帰りに若芽やちりめんを買っていたのだが、骨折入院というアクシデントで、この漁師町を通らなくなり買い物が出来なかった。
この日は、遠回りをしても買い物をしたかったので、行く順番を考えた。
「高速を一つ手前で降りる→叔母の家→母のいるH老健→父のいるM病院→南の端の漁師町でお買いもの」と予定を組んだ。

お昼は我が町の松葉寿司さんで
プレビューではリンクが貼れているけど・・・どうかな?

久しぶりにおかみさんと話が出来た。中学の2年先輩の美人おかみである。

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  赤だしつきの《穴子一匹ちらし》
  姉に御馳走になった?


玉ねぎの甘みが口に残る《玉ねぎそうめん》
これは売店等にはない。この松葉寿司でしか見たことがない。

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食事を済ませ、母の面会・父の面会と予定をこなし、淡路島の南の端まで

↓お目当てのおいしい《ちりめんじゃこ》
150グラム入って500円。
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たこ飯用の《干したこ》大2枚500円
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今時めずらしい、わらを通した《めざし》
4尾入り4袋500円

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姉は若芽も買った。東日本の震災以来、阪神間でも三陸の若芽が不足している。そのせいか鳴門わかめも品薄である。

目的の物を全部getしてご機嫌で高速に乗った。
往復約250キロ。

おまけ?・・・
若芽、ちりめんじゃこ、みょうがを盛ってポン酢、あるいは和風ドレッシングでいただく、超簡単一品料理。

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両親の面会

2週間ぶりに両親の面会に行ってきた。
母は昨日から老健に移った。施設は田圃の中にあり、5階の部屋からの眺めがよい、長年百姓をしてきた母には、季節ごとの畑仕事を身近に感じられていいだろうと思う。

父も元気で着々と100歳に近付いている。調子が良い時は自分から甘いものが欲しいと手を出してくる。今日はお土産に戴いた「もみじまんじゅう」を持って行った。1個渡すとニコッとして甘くて美味しいとペロッと食べた。姉が飲み物を買いに行った間にまた手を出した。
飲み物といっしょにもう1個渡すとそれも食べた。好きな物が食べられる時は元気である。

今淡路島は玉ねぎの取り入れ中であり、高速を降りて走っていると玉ねぎの匂いが漂っている。

 ↓母の施設の駐車場から見えた風景を2枚。

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   《取り入れ風景》

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   《淡路島名物玉ねぎ小屋》

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そして食べたことはないけど・・・?
淡路SA上り線の売店《玉ねぎ入りたこ焼き》の看板

追加でもう一枚、夕方の《明石海峡大橋》

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面会

3人で両親の面会に行って来た。
母の衣類を持っていくため、実に4年ぶりに実家に立ち寄った。
兄嫁も体調が悪く、4年前役所の人やホームの人、ケアマネージャーの前で「年寄りとはもう一緒に暮らせない」と言ったあのときのパワーはどこかに行ってしまっていた。
我々が実家に行った時、兄はいなかった。お昼時に帰ってきたので一応「こんにちは」「おじゃましてます」等の挨拶をしたが無視・・・?ä?
いいよいいよ、こっちだって話しはしたくない。
ただ本来自分たちがすることを、わざわざ遠方から助けに行ったのだ。ねぎらい言葉ぐらいはあってもいいだろうと思う。

いやぁーしかし家の中は、見事に散らかり放題だった。
兄嫁は脊椎狭窄症の手術をし、杖をもってそろりそろり歩いている。車の運転も出来ないし、田圃にも行けない。
あまり仕事をしない兄が一人では、百姓仕事もまともに出来ていないだろう。
両親が、歳を取って田圃に行けなくなった頃から、辛く当たるようになったが、それでも80歳ぐらいまでは農作業をしていた。兄嫁は現在66歳だと思う。身体が不自由になったのは仕方がないが、両親に取って来た態度を、多少は反省したのだろうか?

3年半ぐらい前に父がホームを退所し、持って帰った荷物をそのままにしてあった。
両親が家を出た時のまま、衣類がハンガーにかかっていた。

取り敢えず母の衣類をより分けていると、まだ袋に入ったままの父のパジャマ等も出てくる。
名前を書いて父の荷物に入れる。
当座の荷物を積んで、父のところ母のところと回る。

父は先日肺炎を起こし、ケアハウスからまた病院に移った。
今日はきっと点滴をしてベッドにいるだろうと思ったが、エレベーターを降りてみると車いすの父が見えて、びっくりした。
3人揃って行くと大層喜んだ。

母のところへ行くと部屋にいない。衣類を運び込んでから、リハ室へ見に行くがここにもいない。
また病棟へ戻り看護師さんに聞くと料理教室に行っていますとのことで、言われたところへ行ってみると、いい匂いがしている。
老人とスタッフの人数が同じぐらいいる。ホットプレートでホットケーキを焼いていた。
こんなこともしていただけるのかと感心する。

老人施設に面会にくる人は少ない、スタッフに私たちを指して娘だと言っているらしい。
年をとってしまった娘でも、3人一緒に面会にくると嬉しいらしい。
そして面会者の少ない人のなかで面会者があることは、どうもちょっと誇らしそうである。

「○さんは娘さんが3人もいていいね、面会にもよくきてくれてうらやましい」と入所者の方にも、よく言われるのだと言う


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あれ?

17日の火曜日に、姉妹3人で両親の面会に行ってきた。
母がリハビリ棟から老健に移ると聞いており、それまで籍のあった特養から、荷物を実家へ引きあげたと聞いていた。
実家との関係の悪い中できちんとしたことを、訊くことも出来ない娘3人。病院へ到着したもののどこに母がいるのか解からない。
取り敢えず今までいたリハビリ棟で訊こうと上に上がった。
EVを降りナースセンタへ行くまでに母がいた部屋の前を通ると・・・?
部屋には母の名札が掛っている、中をのぞくとそこには、ビックリしている3人の娘の顔をみて、喜んでいる母がいた??
母にきいても老健に移動することは知らない。これは聞いていても忘れている可能性が高い。

看護師さんに聞いても「?そうですか?そういう話になっていますか?」と要領を得ない。「係りの者に確認します」
しばらくしてケアマネジャーさんが見え話をうかがった。
それによるとリハビリ棟にいられる期限は6月8日までの90日、その後、退院となり老健に入る。が今はいっぱいなので先日まで籍のあった特養にショートスティとして入る。その後、空きがでたら老健に入所予定であると説明を受けた。

本来ならこういう手続きは家族がするものである。。ところが両親の場合、4年前、息子家族から見捨てられた、特別のケースである。そこでこうしてちゃんと面倒をみていただける。ありがたいことである。
3人の姉妹は4年前、兄から何の効力もないしょうもない「今後一切両親のこと、実家のことに口出しを致しません云々・・・」の誓約書を書くよう求められた。
散々両親を邪魔者扱いをし虐待をしたのに、これを書かねばホーム入所を認めないと言ったアホ兄。
腹がたったが、60日あまり我が家にいた母から、今まで話さなかった数々の酷い仕打ちを聞いた以上、実家に両親をおいてはおけずこの誓約書を書いた。

お陰で両親にとっては、安心して毎日を過ごす場所が出来たのだった。
また我々3人にとっても、何時でもこちらの都合で何度でも好きに、会いに行けるようになった。
両親も気兼ねなく娘と話が出来ると喜んだ。
今までなら、年にせいぜい2回しか会いには行けなかったが、この4年間は月に2回は会いに行くようになった。
老い先短い両親のことを思えば、出来るだけ会いにいこうと心がけている。とは言う物のちょびっとしんどい・・・

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母のこと

2月に骨折をして間もなく3カ月になる。
入所している特養は3カ月間留守にすると退所せねばならない。
安い費用で入所の出来る有難い施設である、入所希望者は多い。
最低でも老人車をおして、自分で歩くことが出来なければ入所は叶わない。
母はまだこの最低ラインに達していないので、ホームにはもう戻れない。
先週入院している病院の、老健施設に移った。

今後リハビリが巧くいき、歩けるようになればまた入所の申請を
受け付けてもらえる。しかし恐らくもう無理だろうと思う。
また父とは別の場所での生活になる。

で行く私は別々の場所でも構わないが、バスで行く
姉達には不便である。
今回移ったところはどのような感じなのかは見ていないので解からないが、
普通に話が出来る人たちがいるところならいいのに。
でないと認知症が加速を増して行く。

明日2人の姉と面会に行く。
ホームに入所中はホームに籍があったが、退所すれば、4年前に追い出された
実家に籍が戻る。
4年ぶりに実家に籍だけ戻る、母は理解できるだろうが、どんな気持ちだろう。
  

 


両親の面会と・・・

高速料金1000円の今日、面会に行ってきた。
4月はこれで淡路行きは4回目・・・

往路から期待を裏切らない渋滞であった。
室津PAで「あわじオープンガーデンマップ」を購入した。面会はもちろんだが、昨日今日と行われているオープンガーデンを拝見することにしてgo
姉の同級生のお宅も、去年は参加していたが今年は載っていない。

これは今年で10回目になるという。4月5月6月と2日間ずつ自慢のお庭を一般に開放する。
夫の実家も含まれている。全部で97庭の協力があっての催しである。
メインはやはり両親の面会であり、家を出るのも遅かったし渋滞もありで5庭見せていただいた。その内の1ケ所「花時計」は役所にあるが・・・ショボ?
マップやネットでみる写真は、それなりにきれいな花時計なのだが行ってがっかりである。花時計にほとんど花が植わってないのだ。無料だから文句も言えない。


他は立派なお庭である。丹精込めてカラフルなお花を植えておもてなしをされる。おまけにお茶とお菓子を出して下さる方もある。

時々ブログを拝見している、「ガーデン東の谷さん」宅も見せて戴いた。大勢のお客様で忙しそうにしておられたので名乗りもせず失礼してきた。

コンクリートの塊に囲まれている身には、溜息の出るような広いお庭・・・
何分我が家のお花たちは、夫が一週間も出張するとあわれな姿になる、可哀そうな運命にあるのだ。
別に花が嫌いなのではない、世話をするのが性にあわないのだ。箸にも棒にもかからない横着者なのである? 

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    《あけび》

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   《タイツリソウ》
 

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5月も6月もある、また行ってみたいと思っている。
今日は父のいるケアハウスの近くのお庭をみせていいただいたが、次は違う地区のお庭をみせていただこう。
もっと効率よく回れるように300円で買ったマップをみてリサーチしましょ?


両親の近況

父が病院併設のケアハウスへ、母は県立病院からリハビリの病院へそれぞれ移った。
今日は両親の、新しい生活の場となった所へ、姉と行ってきた。どちらもなかなかいい感じで安心した。

父は珍しく何やら歌を歌ってご機嫌であった。母も新しい病院で気分一新である。母のリハビリ病院は生家に近い。
追い出された家だが、近付いたのが嬉しいらしい。
しっかりリハビリをして、老人車を押して歩けるようにならないとホームへ戻れないよと、叱咤激励する。




行きの阪神高速で被災地へ向けて走る車を10台見た。それを見ていた姉から、息子が昨日朝被災地へ向けて出発したと聞かされた。派遣先はまだ不明だと言う。原発の所じゃなければいいのに・・・と。
この甥っこは、今年45歳になる。民間会社から転職し、現在は神戸市の消防局勤務である。
阪神大震災の時は、被害の大きかった東灘消防署で夜勤中であった。10日ほど自宅に戻れなかった。
その後数年して、現場場には出なくなっていたが、今回は久しぶりの現場出動である。
身勝手だが、原発の事故現場から遠い所で仕事をして欲しいと思う。

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   大好きな《ハナカンザシ》


電話

今朝父のいる病院から着信があったが、しばらく気付かなかった。
気付いたのは約40分後だった、留守電の再生をしたが、名前だけで用件は入っていない。
何分にも高齢だけに、何があったかとドキドキする。
病院に電話をかける前に、2人の姉に電話がかかったかどうか確認をするが、掛らなかったと言う。
病院に掛けねばと思うが動悸が治まらない。

ちょっと横になりながら万が一等・・・色々考える??
少し治まって来たので電話をすると、実家に電話が通じなくてこちらに電話を掛けたが、実家にも電話が通じ用件は伝えたと言う。
今日から病院の隣にあるケアホームに移ると言うことであった。
去年のお正月をはさんで、肺炎になった父は病棟を移動していたが、治ってもう一年になる。詳しくは聞けなかったが恐らく認知症以外に内科的な病気のない父は、これ以上病棟にはいられないのだろう
病院であれケアハウスであれ置いていただけるならどこでもいい。両親とも他に行くところがないのである・・・

家を出されホームに入った時から、籍はホームに移していた。父は入院して籍は実家に戻った。
だから真っ先に実家に連絡が行く。それはいいが実家からは誰も面会には来ない。



認知症の不思議

歯医者の予約をしていたので、治療が終わってから、母の病院へ行って来た。
意外にも、今日からリハビリが始まったと言う。

入院している県立病院では、既に棟をを移動している。最近の新しい病院と違い、低層階の増築増築で、非常にややこしい。迷子になりそうである。

姉から聞いていた入院棟に行くと、EVを降りたすぐの談話室に車いすに乗った母がいた。
そこで昼食を食べたのだという。しかし戻る部屋が解らずそこにいたと言う・・・?取り敢えず自分の名札を探す、或いは看護師さんに尋ねるということに思いが及ばなかったのである??これがあの母なのかと、信じられない思いでじっと母の顔を見た。とても悲しかった。

母が乗っていた赤い車いすは、引退したタイガースの赤星選手が寄贈した車いすだった。サインがあった。思わず写真を撮った?

リハビリが始まり靴が要るというので、ホームへ取りに行って来た。
帰ってくると孫嫁がきて洗濯ものを持って帰ったと言う。そんな時の母は、顔つきも話し方もとてもしっかりしている。不思議である。

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