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認知症の不思議

歯医者の予約をしていたので、治療が終わってから、母の病院へ行って来た。
意外にも、今日からリハビリが始まったと言う。

入院している県立病院では、既に棟をを移動している。最近の新しい病院と違い、低層階の増築増築で、非常にややこしい。迷子になりそうである。

姉から聞いていた入院棟に行くと、EVを降りたすぐの談話室に車いすに乗った母がいた。
そこで昼食を食べたのだという。しかし戻る部屋が解らずそこにいたと言う・・・?取り敢えず自分の名札を探す、或いは看護師さんに尋ねるということに思いが及ばなかったのである??これがあの母なのかと、信じられない思いでじっと母の顔を見た。とても悲しかった。

母が乗っていた赤い車いすは、引退したタイガースの赤星選手が寄贈した車いすだった。サインがあった。思わず写真を撮った?

リハビリが始まり靴が要るというので、ホームへ取りに行って来た。
帰ってくると孫嫁がきて洗濯ものを持って帰ったと言う。そんな時の母は、顔つきも話し方もとてもしっかりしている。不思議である。

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骨折と・・・((+_+))

昨日は神戸の姉と一緒に母の様子を見に行った。
長姉の所へ実家の嫁から久々に母のことで電話があった。
それを聞いた夫が「雨降って地固まる。になるのか?」と言った。
冗談じゃない、そんなことで我々3人は水に流したりは出来ない。
我々に真相を話さないことを知っていて、絶対に水に流したりは出来ない陰湿な、仕打ちをしてきたのだ。

大腿骨骨折ではあるが、金具を入れる30分ぐらいの手術を前日に終えている。
昨日は朝から普通に食事が出ており、食欲もある。
朝ベッドから一人で降りて立っていたらしい。危険極まりない行動にでる。それ以後、大きく身体を動かすとナースセンターでキャッチするセンサーを付けている。

この時点では、点滴を外したりの行動がみられなかったので、付き添いの必要はないと言われていた。

ただ骨折をしたショックからか、時々意味不明のことをする。
そして前日、実家から嫁と孫の嫁、ひ孫が来ているのだが、孫嫁とひ孫が来たのは覚えているのに、嫁が来たことは覚えていない。
母が意識的に嘘をついているのかと思い、孫嫁がひ孫を2人連れて来たので確認した。
やはり前日来ていた。

母の記憶から消し去りたい人物らしい。記憶の切れるスイッチが入るようだ?そして時々ホケーとした顔をする。ひ孫や孫嫁をみる顔はしっかりしている。娘が2人掛かりでも敵わないのだ?
お昼を食べた後で、パジャマを脱ごうとする。訊くと「朝だから着替えをする」と言う・・・・?病院のベッドだからパジャマを着ていたらいいのだと言ってもすぐに脱ごうとする。

そして姉と2人でホームにお礼やお詫び、そしてパジャマの着替えを取りに行って来た。
戻ると脚に着けているポンプを外したり点滴をいじるので、やはり付き添って欲しいといわれた。
予定通り姉が付き添った。

昨夜の様子が気になるのだが、連絡がない。
環境が変わったことと、骨折をしたショックから認知症が一気に進むのかもしれない。


記憶力が良すぎて嫌われた母が、安心して生活できる空間に身を置いたことで、認知症を発症してしまった。

神様も、皮肉なことを するものである。

両親の面会

昨日は久しぶりに両親の面会に行った。
決して忘れているわけではないが、1日空いている日がなかなかなくて最近はあまり行けていない。
1月は1回、2月も恐らく1回しか行けないだろう。冷たい娘だと思われているかもしれない。
両親が我が家の玄関に置き去りにされてから、間もなく4年になる。色々嫌な思いをしたが、とりあえずは穏やかに暮らせていることに安心している。

父と母が別々に暮らすようになったころは、神戸の姉と毎週行っていた。父がホームには戻れなくなり、長期戦になることを考えると無理は出来ないと、3人の姉妹で都合をつけて行くようにした。
やっぱり心待ちにしているのがよく解かる。

今年100歳になる父の認知症は緩やかに進んでいる。昨年のお正月を挟んで寝込んでから、自力で歩けなくなった。そして認知症の進行が幾分速くなったようである。淋しいことだが100歳という年齢を考慮すれば仕方がないことだと思う。
昨日は末っ子の私の名前が出なかった?「娘の名前が思い出せなくなった」としょんぼりする父ではあるが、日に日に様子は違い、ハッキリ名前を呼んでくれる日もある。
昨日は「何か甘いものが食べたい」と言った。どんなにこの言葉を待っていたことだろう。
以前の父なら、顔を見ると「甘いものを持ってきたか?」と必ず聞いた。そしてこどものように両手に持って、美味しいおいしいと食べた。「甘いものいなら何ぼでも食べられる」と次々手を出した。もっとゆっくり食べるように言わねばならないほどパクパク食べた。しかし今の父にはそんな元気はないが、食べたいという意欲が嬉しかった。
車いすの後ろにはお風呂に入るための着替えの袋が掛けてあった。そろそろ父の順番が来たようなので「帰るね」と言うと「もう帰るのか?」と言う。が私達がいるのを意識したのはここまで・・・
後ろに回るともう忘れており振り向くこともない?

次に母のいるホームへ走る。
ホームは昨日、健康診断が行われていた。
面会表に名前を書き呼びだしてもらう。何分かかるかなと思っていたら、意外と早く来た。「放送聞こえたの?」と聞くと聞こえなかったが、他の人が面会の呼び出しをしていると教えてくれたと言う。
健康診断は名前順なので、母の順番は早い。職員さんから「最後に呼びますから面会を続けてください」と言っていただく。

話をしていると、目の前にいる娘を時々自分の妹と間違える?
昨日は古い話をしていた、母の修学旅行の話しだった。母が「私が修学旅行に行った時あんたは?年生だった・・・」と言い、それは違うと言うと「いや、そうや」と言う。そこで「私は娘だよ、それは叔母ちゃんでしょ」「????」とこんな具合である。母の認知症は急激に進んでいく。


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先日の花鳥園で《バナナ》

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《ストレプトカーパス》


予定どおり

両親の面会に行って来た。
今日の父はご機嫌だった。父が歌をうたっているのを聞いた記憶があまりないのだが、今日は何かしら口ずさんでいた?
母は変化のない生活のなかで新しい出来事もなく、今までに聞いたことを繰り返し話している。
母のいるホームを出て5分ぐらい走り、足湯に入ってきた。

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高速料金1000円はここも滅多に見ないほどのお客がいた。

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水虫の足も入っている足湯   aozora@

SAに入る前に阪神高速は、深江先頭で19キロの事故渋滞の情報が表示されていたので、SAでゆっくり休憩をして帰って来た。
高速料金1000円の日はやはり通行量が多い。淡路鳴門自動車道は料金が高いので仕方ないが、実際にはどこがどれだけ潤っているのだろう。
SAが潤っているのは間違いない。帰りの淡路SAは車がいっぱいであった。

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  ライトアップされた《明石海峡大橋》


両親のこと part3  

今回は兄が結婚した昭和43年からのことを書いてみよう。

重い内容が続きます。

一人息子の兄は実家に久々に産まれた男児で、曾祖母がネコかわいがりをしたと言う。やんちゃ坊主の息子を父が叱ろうとすると、この曾祖母が父の前に立ちはだかって「〇〇を怒るなら叩くならこの私を叩いてくれ・・・」と言ったと聞く。
すべてがこんな感じで大事に、甘やかされて育ちろくな男にならなかった。
この曾祖母は88歳で逝った。

幸か不幸かどうみても長寿の家系である。


兄が結婚した時は、祖父母が健在であった。もちろん同居である。
新婚旅行から帰った嫁に母は「若い時はいくら寝ても眠いものだ、早く起きる必要はないからゆっくり起きて来たらいい」と私の目の前で言った?ä母にすれば養子娘の自分は親の苦労をしていないので、嫁にも苦労をさせたくない。それに出来の悪い息子にせっかく来てくれた嫁を大事にしたい、そんな気持ちであった。
そして言葉通り朝はゆっくり起きる生活が始まった。

起きるのは遅かったが、食事の用意は手早く味付けもよく料理上手であった。農家の嫁としてもよく働く働き者であった。みんなで大事にした。
そのころ祖父も両親も畑仕事の合間をぬって仕事に出ていた。
祖父母は30数年前に亡くなった。

みんなが働きに出るからか、結婚後一度も働きに出ることはなかった。言ってみれば世間知らずである。よく働くがよく病気もした。
30年ぐらい前に家を建て替え、そのころから家の財布は嫁に渡った。両親はずっと働きに出ていて、その収入のほとんどは家に入れた。

結婚後10年ぐらいは上手くネコをかぶっていたのだ。

目に見えて様子がおかしいと感じるようになったのは17~8年ぐらい前だったか・・・
母がいやに嫁に気を遣うのが見てとれた。
我々が顔を出すのがいけないのかと思うようになり、気にはなりつつ足が遠のいた。

今年100歳になる父は85歳ぐらいからゆるやかに認知症になっていった。畑仕事も出来なくなった。この頃から両親は辛い思いをしていたようだ。

置き去りにされる何年か前に、兄から電話がかかった。開口一番「もう年寄りの面倒はみない。引き取りに来い!」3人の姉妹の中で私だけが車に乗るからだろう。その手のことは末っ子の私にかかってきた。妹ということもあっただろう。
その時は長女がしばらく預かるつもりで息子と迎えに行った。が結局父は来なかった。

母には妹が2人いる。大阪にいる叔母も大体の事情が解っており、姉である母に会って話がしたくても出来なかった。そこで叔母が淡路で両親と娘3人と、女のいとこの計11人でどこかで泊ろうという話になり淡路で宿を取った。
その時、兄嫁は自分を誘わないと言って文句を言った。集まるメンバーをみれば自分が参加できるものかどうか解ると思うのに怒った。両親といとこの集まりなのに怒った。怒りを鎮めるべく遅ればせながら誘うと「今回は遠慮する」とのたもうた・・・?

何度も我々娘は両親を旅行に誘ったが、遠慮し「忙しい」を理由に実現しなかった。
実権を完全に握り、お山の大将になった嫁に兄も両親も手が出なかった。

母の遠慮解ってますかお義姉さん   K



両親のこと part2

話しあうことを知らない困ったちゃんの兄である。

話は両親が置き去りにされる前にさかのぼる。

この頃のことを思い出すと泣けてくる。

置き去りにされる2週間前、母は貧血で入院した、入院を勧められた母は、「嫁の許可をもらわないと自分では決められない」と言った。
一緒に行っていた私が電話で連絡をし、なんとか許可を得る。

退院の日「家に帰るのが辛い・・・」とおいおい泣いた。
自分の産まれた家に帰るのが辛いと、泣く母に私も姉も言葉がなかった。
なんとか気を晴らせてやりたいと思い、市内の有名なしだれ梅を観に連れて行った。
しかしこれさえも嫁の気に入らなかった。
退院の帰りに遊びに行くとは何ということだと?ä?
そして、頭が下を向くほど腰がまがっている母に「そんな姿になってもまだ入院して生きていたかったのか・・・」と暴言を吐いた嫁。
日常的にこんな暴言を浴びせられていたのである。

そしてその次の日置き去りにされたのだった。
その後、67日我が家で過ごした。

そしてpart1である。

市役所からの入所決定の知らせを受け、それまでの10日間をまた我が家で過ごした。
兄夫婦も両親を施設に入れようと市役所に行ったことがあったらしい。しかし手も目もある大家族では叶わず却下された。
まして所帯主の兄や姉が行かずに息子の嫁が行った。ここは兄夫婦が行かねば・・・・
その経緯があり、我々の相談から入所が決まったことに怒り狂う兄夫婦とその息子。
自分たちがしたことに気付かないのだ。

感謝されても叱られる理由はないはず。
大事にしていた親を、横から他人ばかりの中に放り込むのではないのだ。
邪険にされ口汚く怒られ続ける両親を、保護する目的で入所させるのだ。
なんとかこれから先、安全で安泰に過ごさせてやりたいのである。
市も家族からの暴力から救わねばと、驚くほどスピーディに入所を決定したのである。
解っていない・・・・?ä?

両親が施設に入ることに納得しない一家、おかしな話である。
日常的に暴力を振るっていたことは、父の身体にも心にも残っていた。姉の家に行った父は「○一(息子)が恐ろしい」と身を震わせた。

デイサービスでお風呂に入れてもらう時、腰の痣を見た係りの人が父に聞いてもハッキリせず、母に聞いたことがあると言う。これは父がほんとに解らなかったのか、或いは息子から暴力を受けたことを恥じて、隠したのかはわからなかった。
母には解っていたが、この時点ではまだ、父が言わないことを母も言わなかったのだ。

入所は4月20日、私の誕生日だった、前日「簡保の宿」で親子5人で泊った。父は忘れているが、母はよく覚えており、いい思い出になった。母とお風呂に入っていた長姉が出てきて言った。「何と他人さんの親切なこと?」脚腰の悪い母がお風呂に入って行くと、見ず知らずの方がわざわざ浴槽から出てきて、手を差し伸べてくれたと喜んだ。

他人だから出来るのかも知れない。毎日一緒に暮らしているとうっとうしいだけの邪魔者なのかも・・・
ただ両親も昔から年寄りだったわけではなく、みんなが順番に歳を取ることを忘れてはいけない。

翌日から両親は施設で、10日間の泊りのデイサービスからスタートした。
その間3回、両親、4人の子どもと嫁、孫、そして施設の所長、職員、市役所の担当者、ケアマネージャーと話し合いを持った。
これは我々身内だけでは話が出来ない困ったケースということである。

嫁はみんなの前で「年寄りとはもう一緒に暮らせない」ときっぱり言い放った。
その横で「お前たちが勝手にしたこと、わしは知らん」とまだ言うアホな兄?

結局申請は兄がするということで、落着し今に至っている。
そして条件として兄から「両親のこと、実家のことに一切口出しをしない」旨の誓約書を書かされた。それ以来音信不通である。

元々口出しはしていない。
母がまだ元気で若いころから「これから歳を取って寝たきりやそれに近い状態になることがあるかもしれない。そんな時、たまに帰ってくる娘たちは「ああしてやればよいのに、こうすれば・・・ということを一切言わないように・・・」とくぎを刺されていた。
3人はそれを守って来た。
しかし、虐待、置き去り事件に関しては口をつぐんでいるわけにはいかなかった。

我々3人の姉妹は月に大体2度は面会に行くが、地元にいる兄夫婦は行かない。
その方が両親の心に波風が立たずいいだろう。


施設に入って3日目か4日目に母に届けるものがありホームに行った。出て来た母は数年来見たこともないほどの笑顔で開口一番「ここにいると天国じゃ」と言った。?朝はこちらから言う前にお早うの挨拶をしてくれる?こんなことで年寄りは喜ぶのである。
施設に入れて本当によかった。
父の顔もずいぶんと優しくなった。
どの職員さんもにこやかによくしてくれる。

実家にはなかった両親の笑顔が、このホームで戻った?感謝してもしたらない。
約半年で父はホームを出て病院暮らしになったのは残念である。


ホームに親捨てて来たのじゃありませぬ   K  
これ以上曲がる余地ない母の腰     K

両親が無事施設に入った時から、いずれ必要になるかもしれないと、3人で年金の支給月に積み立てを始めた。
両親の命の火が消えるまでは続けていこうと話している。


両親のこと part1 (歯抜け日記です)

どなたが見ているかもわからないネットの世界で、全てをあからさまにするのには不安がある。兄夫婦はPCを触らないが、甥は触る。だれかを通じて知る可能性もあることを考慮し、歯抜けにしました。
両親が天寿を全うし、父が建てたお墓に無事入るまでは、兄夫婦や甥に知られるとまたひと悶着が起きるのは必至、それまでは・・・・・・・・・

両親のことは2月にUPするつもりでいたが、ーーーーーーーーーーーー 当たったことが、判ったので何回かに分けて書いていこうと思う。

実家はその当時、ーーーーーーーーーーーーーーーー人家族という田舎でも今時、珍しい大家族であった。世代の違う大家族の中で色々問題があるのはよく解る。っがしかし人間の心を持って、して良いことと悪いことはある。
病気がちの兄夫婦にとっては長寿の両親が邪魔で仕方なかったのであろう。
その邪魔者扱いをしている両親の、わずかばかりの年金をーーーーーーーーーーーーーーである。

両親は4年前の2月の26日、誰もいない我が家の玄関に置き去りにされた。実家からは何の連絡も前触れもなしに、荷物のように置き去りにされた。

実家から荷物のように親届く    K

宅配便でも、留守伝票を入れて再配達をするというのに置き去りにしたのは、可愛がってもらった孫(兄の長男)である。認知症の父と足の悪い母を置き去りにすればどうなるか考えが及ばなかったのだろうか? ーーーーーーーーーーーまだその時の父はしっかりした脚をしていた。
私が母を大、阪の姉が父の面倒を、落ち着くまでみることにした。
ほぼ着の身着のままで冬の寒い中、娘の家の玄関に置き去りにされた母の悔しさ情けなさを知る由もないのか、実家からは母がいた約2カ月の間、一本の電話も寄こさなかった。
今まで話さなかった ーーーーーーーーーーーーーと母の口から聞いた。こんな酷い仕打ちに耐えてきたのは知らなかった。このころの母は記憶が鮮明でその鮮明すぎる記憶力さえ、兄夫婦の気に入らなかったのである。
食事は一緒のテーブルに着けず両親だけ後からだった。毎朝「お早うさん」の挨拶に応えてくれるのは孫の嫁さんとひ孫だけで、兄夫婦も孫も知らん顔・・・・こんな状態の実家に我々も電話をかけるのも躊躇した。

この年の夏、次女が第一子を出産する予定であり、出産後はしばらく我が家に身を寄せることになっていた。娘が来るまでは面倒をみるつもりで、ーーーーーーーーーーーーーーーー準備をしていた。
ところが母は、「デイサービスなら今まで行っていた田舎で行く」と言うので3人の姉妹で相談し、神戸の姉と一緒に取り敢えず母だけを連れて帰った。

車から降り庭に入ると兄がいた。じろりと睨んだ口から「帰ってきてもいいとは誰も言ってない!!」と信じられない言葉を聞いたーーーーーーーーーーーー叱責した。

それでも兄嫁が帰ってくればなんとかなるだろうと、気がかりながら実家を後にした。悔しかった、情けなかった。この日は何とかなっても、産まれた家のどこにも母にも父にも居場所のないことは判った。
その足で市役所に行き両親のことを相談したのだった。

わたしも姉も、年寄りと言えど人権があり、あの兄の言葉や、荷物のように置き去りにされるなど、人権を無視するのも甚だしいと思った。市役所の福祉課の方が詳しく真剣に我々の訴えを聞いてくれた。そして市役所の決定は我々姉妹がビックリするほどスピーディだった。「老人虐待」と取ってくれたのだ。
色々考えれば老人虐待そのものなのである。そして早速特養の入所が認められたのだった。
決定の連絡が入ったのは、市役所に相談にいって4日目だった。

決定したことでまた一波乱があったが、また後日書くことにする。

っでその鬼のような、否鬼そのものの兄夫婦に当たった罰とは・・・・・
兄嫁に新たに癌が見つかり、ーーーーーーーーーー発症したのだと言う。そして孫夫婦が出て行ったとも・・・これは病院で兄夫婦に出会った、叔母からの情報である。

神様はよく見ておられたのだ、意外に早く当たった罰・・・・
恐らくもう農業は出来ぬ身体になるであろう兄嫁と、たいして仕事をしない兄。さてこれからどうなるのだろう?
願わくは2人にもう少し年齢を重ね、歳を取るしんどさを味わってもらわねばならない。

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   お香《ラベンダー》



面会

9月は中頃からバタバタしていたので両親の面会に行くのが後回しになっていた。
病院の父に会いに行くと父は珍しくホールで車椅子に乗ってじっとしていた。昼食後で大勢の人がいた。このフロアに入院している人は車椅子のひとばかりなのだ。父も年末から2カ月半寝込み脚はすっかりダメになった。しかし記憶の中では自分は歩けるものと思っている。リハビリもしているが何分99歳の高齢者である。一度失った機能は簡単には戻らない。っでベッドから勝手に降りようとして転んだりころんであちこち打ったりする。危ないので今はベッドを外している。

9月に行った時は「誰や?」と3人の娘の名を上から順に呼んで私の名前も出て来たが、今回は真ん中の姉の名前は出てきたが長姉も私も出てこなかった。そこでヒントを出した、それでも出てこなかった。最後に〇で始まると言うとやっと出て来た。
母の名前は覚えているかときくと「おばん!」だと言ったのには笑った。

母のホームへ行くと顔なじみの職員さんがすぐに呼びだしてくれる。面会に来る人のない方も大勢いるので居室での面会ではなく面会室での面会となる。10分待っても20分待っても降りてこない。その間洗濯物を取りにくるよう放送が2回あったが現れない。耳の遠い母には放送が聞こえていないようだ。30分待ってようやくあらわれた母は敬老会の催しに行ったことお弁当が出たこと、そのお弁当が御馳走だったことなど嬉しそうに喋った。

帰りのSAで2人の姉にをした。父の様子を報告する時、姉が言った「そうしてみんな忘れてしまうんやね・・・」に大きくうなずいたのだった。
何分にも2人とも高齢でありある程度の心の準備は出来ている。しかしこれからだんだん淋しい思いをするのかと思うとやはり辛い。

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老人施設めぐりツアー

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   《大橋のライトアップ》

父のいる病院、母のいるホーム、義兄のいる病院の3か所を夫と回って来た。
今日は高速料金1000円の日、覚悟をして出かけたが、その割に往路はスイスイと気持ちよく走った。料金所を出る時1000円の表示を見ると賛否両論はあるが、単純に嬉しい。
気持ちは1000円も無料も道路のメンテナンスを考えると賛成は出来ない、それでもやはり嬉しい。自分でも矛盾してるなと思う。

母のところへ行くといつになくたくさんの面会者があった。こんなことは滅多にないことである。どなたも面会のない方が多い。
職員さんが「〇〇さんに今面会の方がお見えです」と言うので姉が来てるのだろうと行ってみると神戸の姉がいた。母の面会に訪れるのは我々3人の娘と母の妹夫婦、そして実家の孫の嫁さんが偶に来るだけ。実家の息子夫婦は来ない。

産まれ育った家を出された母が落ち着いたのがこの特養である。

3年半前にこのホームに入所した母が「ここにいると天国だ??」というホームである。

この件について書けばいくらでも書ける、一度じっくり書いてみたいと思う。

実家から荷物のように親届く   タンポポ

↑これが両親がホームに入るきっかけになった、父は半年ホームにいて今いる病院に移った。

歳をとるのは大変なことである。
穏やかな実家での生活があると思っていたが違った。
母にとって今のホームでの毎日が穏やかな生活の場となった。
実家では食事の片づけや、ちょっとした家事を暴言に罵声に耐え、気を遣いながらやってきた。

これらのことを全くせずにすむ、ホームでの暮らしはほんとに天国に、思えたのだろう。
朝の挨拶さえも交わさない、家族との生活は辛かったのだ。

何もしないでもいい生活は、残念なことに認知症を発症してしまった。
それでも今の方が安心して暮らせ、幸せな毎日を送っている。
顔つきが明るくなったし、みんな親切で嬉しいと言う。

父はすやすや寝ていた、少し顔色が悪くなったのではないかと思った。
しばらく寝顔を見ていたが起きないので衣類やお菓子を預けて帰って来た。
5分前のことも覚えてないので、「まあいいか?」99歳ガンバレ!!

義兄は人工透析をしている、夫とは腹違いである。腹違いの義姉も義兄も腎臓病でこの病院で、亡くなっている。
透析を始めて2年位になるだろうか。本人が一番気にしていることだろう。
病室にいないので聞くと透析中だと言う。遠くから行っているので透析室へ入るOKをもらい夫だけ面会に入る、透析室には40床のベッドがあるらしい。午前中は外来の患者でいっぱいで、入院患者は午後からとのこと。隔日ごとに3時間の透析はしんどいことに違いない。それに水分1日500CC、生ものダメ、果物ダメ、の生活はとても厳しい。

糖尿の私は危ない・・・(-_-;)余命20年にこの期間が含まれませんように???

帰りは阪神高速の渋滞に引っかかってしまった。橋を渡りトンネルをくぐった後のほぼ全線、ノロノロ運転と停止の繰り返しだった。渋滞での追突事故あり故障車あり。
せめて高速に乗る時は、途中で故障しませんようにと願う。


高速料金

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  《キリの花》

1000円につられて、9日の日曜日、田舎へ行って来た。
来月から値上がりだし、1000円の期間は渋滞を恐れて、ほとんど恩恵を受けてなかったので、最後に一度走って来ようと・・・。
当然渋滞情報を見た、その時点(7時半)で事故の情報はあったが渋滞には至らなかった。

姉が5月3日に行った。舞子で高速バスに乗ったとたん明石海峡大橋の上で停まってしまい、普段なら1時間でいくところ2時間かかったと聞いていた。行きも帰りも大渋滞でバスに乗っているだけで疲れたと言っていた。

1000円区間には含まれていない阪神高速も、交通量はとても多かった。他府県ナンバーの車が多い。
混雑はしているが、スイスイ気持ちよく走ることが出来た。渋滞を覚悟で少し早めに出たので、予定より早くつきそうだった。一年に何度も橋を渡って田舎へ行くが、用事で行くため観光をしたことがない。
人から聞かれても知らないとしか言えない。ならばと今回は一か所だけ行くことにした。

故阿久悠氏の「あの鐘を鳴らすのはあなた」の鐘が、最近設置されたので行きたかったが、ちょっと遠い・・・。途中で高速を降りてICに近いところ・・・
??観光バスで行くと必ず立ち寄るというところ「たこせんべいの里」に行った。確かに工場見学が出来るが、案内も何もない。ふんだんにある試食と無料サービスの?が客を呼んでいるようだ。
ガラス越しに製造作業を見る、おせんべいの「土産物屋さん」である。観光バスのお客さんは大きな袋いっぱいにおせんべいを買って満足そうにバスに乗る。

再び高速に乗り本日のメイン、N病院へ夫の兄を見舞う。3月に自宅で転び脊髄を損傷したらしい。
最近連絡があり、びっくりして見舞いに行った次第である。
ゆっくりと回復している、とのことではあるが高齢であるし、まだまだ時間はかかるだろう。
透析をしているし、一人暮らしなので病院にいる方が安心できる。

その後、両親の面会に行く。98歳の父はずいぶん元気になっていた。やっぱり100歳をクリアしそうだ?
大好きな甘いものを食べたいとも言ったし、食べ終わらないうちにもう一方の手が出てきた。
甘いものが食べられるか否かが、体調のバロメーターの父である。

母は相変わらず古いことは鮮明に覚えている。長姉が嫁いだのは昭和何年とかと言う風に、もう40年以上も前のことをさっと答える。私は長女が結婚した年は覚えているが次女はハッキリしない?
胃カメラをのんだと聞いていたが、ヘルパーさんしか出勤をしていなかったので、結果はきけなかった。
このままホームでゆっくりと安心してすごして欲しい。

高速の脇にはフジやキリが咲き綺麗な故郷の山であった。

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念願の《玉ねぎソーメン》食べました。夫は《淡路島特選牛丼》美味しかったです。

帰りは淡路島の南の端から全島を縦断して走り、明石海峡大橋を渡って1000円。
お得感いっぱいの日曜日であった。


高齢の両親

姉と一緒に両親の面会に行った。

ホームにも病院にも何時行っても、他の面会者に出会うことはまずない。そ
れゆえか私のが行くと、面会簿に記帳する前に放送で母を、呼び出してくれる。
大抵の場合それから20分ぐらい待たなければ、面会室に母は現れない。
特養で相部屋だからか、面会は常に面会室を利用する。
何分にも、もうこれ以上曲がる余地のないほど曲がった腰では、手すりに掴まってないと下着を上げることが出来ない。
しかしその曲がった腰のため、片手で上げるのは容易ではない。

今回は30分待っても現れなかった。姉が以前忘れていたことがあったと言うので、事務所へ言いに行くと事務所の方が見に行ってくれた。
衣類を汚したのだろう、着替えていたと言うことであった。
その後15分ぐらい待ってようやく姿を現した。老人と付き合うのは気を長く持たないといけない。

母はよく新聞や本を読む。ひ孫が珠算の検定に合格したのが、先日の新聞に載っていたと嬉しそうに話した。
これは11日に長姉から聞いて知っていた。
半年ぐらいは行く度に言うことだろう。
刺激も変化もないホームの生活では、あまり話すことがないから仕方がない。
あとよく言うのは誰それさんが亡くなったと言う話である。
田舎の新聞の地方版には誕生も逝去も載せてくれるのだ。

そして父のいる病院へ向かう。肺炎で一カ月寝込んでいた父は復活をしている。
命取りになりかねないのによく復活したと思う。
行った時は入浴中で、ここでもまたしばらく待つことになった。

お風呂上がりの父はとてもいい顔をしていた。
第一声は「姉ちゃんは元気なのか?」と長姉のことを聞く。
11日に姉が行ったことなど覚えていないのは当たり前・・・
そして数分後、姉に向かって「○子か?」と姪の名前を言う、今の今まで娘だと認識していたのに・・・意識がどこかへ飛んでしまった。こんなことは初めてだったå

もちろん私のことも解らない。しばらくすると目の前の2人は娘だと解ってきた。
しかし実家にいる間、年老いた両親を虐待していた情けない長男のことは、思い出さなかった。
それがいい。その方が心穏やかに暮らせていい。

今後このようなことが、度々起きるかも知れない。何たって98歳、8月には99歳になる。
今いる病院の最高齢者である。すべてを真摯に受け止めねばならない。
一抹の寂しさを暮れて行く海を見ながら整理していた。両親の面会のため何度あの大橋を渡るのだろうと、考えた。
混んでいるらしい阪神高速に乗るため、シュークリームと?で休憩をとった。

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産まれししものと・・・

前にも書いたが父は98歳、認知症ではあるが健在である。
その父の入院先の病院から電話がかかって来た。
肺炎を起こしており、状態が良くない。そこで今の病棟から内科へ移したいので了解を欲しいとのことである。本来なら即答すべきことである。ところがそれが出来ない腹立たしい理由がある。
いきさつを書けば、とても長くなるので、これからおいおい書けたらいいと思っている。

もともと口出しも何もしていないのに、実家の兄夫婦から「今後一切両親のこと、実家のことに口出ししない」という理不尽な誓約書を書かされている我々姉妹には、こんな大事な件にも返事が出来ない。
それで無事父が内科に移れたかどうか、またその後の様子も解らない。いろいろと用があり直接見に行ける日がないのだ。なにぶん高齢である、その後の様子を知りたい。

今年のお正月にも体調を崩した、これまでかと覚悟をしたが、数日後面会に行くといつもと変わらない父がいた。寒がりなので冬に体調を崩しやすい。
っで今回もさほど心配をしていない。98歳にして普段内科的な薬を一切のんでいない。
元気さである。
自分の部屋もトイレも解らないのでウロウロしないよう睡眠薬を飲んでぼんやりしている。


そして次女のお産が近付きつつある。次回の検診予約を4日に取っているが、
おそらくそれまでには産まれるだろうとのことなのである。
両親にとっては9人目のひ孫である。



私の日記は

たいてい昨日の日記・・・

昨日は両親の面会に行って来た。
両親は初め同じホームにいたのだが、母の入院中ちょっとした事件?を起こしそれ以来病院にいる。要するに認知症の度合いがホームで看られる基準を超えてしまったのだ。
そんな父でも娘の顔も名前もちゃんと解るし、トイレにも行ける。

98歳の父はそのフロアでは最高齢である。なかなかの注目を集めている。
面会に行く家族の少ない中で、ダントツに面会に行っている我々3姉妹。
ほかの家族が面会に行っているのを見かけない。
認知症になった老人を病院へ入れてしまえば縁が切れたと思っているのか、他の患者の家族に会わないのである。
話をする後から忘れていく父、子供のこと夫のこと、聞かれることに答えていく。今の今答えたことをまた聞いてくる、その都度答える。娘の年を答えたすぐ後で「お前は、何歳になった?」と聞く。答える前に「40何歳になった?」と聞く?
61歳と答えると「そうか顔は若い」と言うФ
眼もあまりはっきり見えてない父の言葉に喜ぶわけにもいかないが、すべてが、こんな調子である。食事も一人で出来るトイレにも行ける、これ以上望むことはないと思う。

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母は父と別に暮らすようになって、父の後を追いかける必要がなくなりうんと運動量が減った。顔が真下を向くほど、腰が曲がっている母は歩行が、かなり困難である。
運動量が減ったことででますます脚が弱くなってきた。
歩けなくなったらホームにいられなくなるから、しっかり歩くように、心を鬼にして言うのだが、あまり歩いていない。
家を出て精神的に楽になり、また父の後を追っかけなくなった母は、体重が増えてきている。看護師さんから食べ物を持ってこないよう言われている。
その母のいるホームでは、いま外壁工事と中も少しリフォームをしている。
調理室もリフォーム中とのことで、下の画像の調理用トラックの中で調理をしているらしい。
いろんな車があるものだ。

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